98回

 日本武尊 

兼六園96回の前田利家像に次ぐ金沢銅像の第2弾は、兼六園(左)にある日本武尊。10年以上前に訪れたときに「なぜ大名庭園の中に日本武尊の像があるのだろう」と不思議だった。当時は銅像めぐりのHPを作っていなかったし、ガイドの説明も聞かずに勝手に回ったので、疑問だけが残った。

今年の3月に知り合った墨威宏さんの著作「銅像歴史散歩」(2016年3月発行・筑摩書房)に、兼六園の日本武尊は屋外に建てられた日本最初の銅像と書いてあった。

銅像めぐりをしているからには、日本初の銅像を取りあげないわけにはいかない。ということで、しげしげと眺めてきた。

初の銅像が設置されたのは、1880(明治13)年だ。江戸時代には水戸光圀などの木像はあったが、銅像は作られていない。日本武尊像以降続々と作られるのかと思いきや、次に出来たのは1893(明治26)年の大村益次郎像。銅像を建てようにも、彫刻家や鋳造家がほとんどいなかったのだ。私が大村益次郎像を取り上げた時は、全国でも2番目、東京では最初の銅像ということを知らなかった。依頼された彫刻家の大熊氏廣氏は、パリ・ベルリン・ローマで銅像作りを学んできたという。

金沢に近い富山県高岡は、江戸時代初期から銅器の産地であり鋳造技術があった。日本武尊像を作った人たちは、高岡の鋳物師だった。日本最初の銅像誕生には、高岡が近くにあったという幸運もあったのだ。今でも高岡は銅像制作のふるさと。行ってみたい。

日本武尊像日本武尊像日本武尊は実在したかどうか疑わしいが、熊襲を倒した伝説がある。だから、猛々しい像を想像していたが、この銅像は女性っぽいばかりか、仏像のように慈悲深い顔立ちだ(右)。女装をして熊襲退治をしたと言われているので、こんな女性っぽい像になったという。

この像の正式名称は「明治紀念之標」で、台座にもそう彫ってある。1877(明治10)年の不平士族の反乱・西南戦争で、政府側として戦った犠牲者約400名の慰霊の碑である。

なぜ、鎮魂碑に日本武尊像を使ったのかという疑問は残る。墨さんの著作には「採用した理由も諸説あってはっきりしない」とある。兼六園にはそぐわないから、移転や撤去の話も出たが、結局はそのままになっている。

最初の銅像だからか、台座は石を積み上げただけで、コンクリート製と比べると心もとない。崩れそうに思えるが、ガイドさんは「ヘビとナメクジとカエルの三すくみ(下の写真)で崩れないんです」と説明してくれた。「三すくみ」はこじつけとしても、城づくりなどの石垣の技術があれば、造作ないことだったのではないだろうか。

銅像の両脇には見事な赤松が堂々と枝を伸ばしている。銅像建立時に、京都の東西本願寺から移植した。右側が東本願寺、左側が西本願寺の松。かなりの銅像を見てきたが、これだけの樹木に守られているのは初めて見た。

台座 銅像の両脇にある赤松
 
銅像の台座部分。ヘビとカエルは分かるが
ナメクジは分かりにくい
 
日本武尊像の両側には見事な赤松
右側が東本願寺、左側が西本願寺から移植


桃太郎像ところで、この銅像にはオモシロイ逸話がある。銅像建立から135年にもなるのに、鳥の糞害にあってないそうだ。つまり、鳥が近寄ってこないのだ。他の銅像には鳥がよくとまっている。糞で 汚れた銅像もたくさん見た。

左写真は岡山駅前にある桃太郎像。桃太郎の肩にのっているのは、銅像の一部であるキジだが、この写真には3羽の鳩が写っているのがお分かりだろうか。

金沢大学の廣瀬教授は、自分が入学した時の兼六園での歓迎コンパの時に、糞害がないことに気づいたという。「なぜ鳥が近寄らないのか」をテーマに銅像の成分を調べたところ、普通の銅像にくらべ、ヒ素や鉛の含有量が多いことが分かった。ヒ素は猛毒として知られるが、ヒ素そのものよりも、異種金属を配合したことから出る電磁波が鳥に嫌われたらしい。

この研究で廣瀬教授は平成15(2003)年に、イグ・ノーベル賞化学賞を受賞した。なんともユーモアのある話である。日本で初めての銅像には、こんな秘密もあった。      (2016年8月23日 記)


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