ブツブツひとりごと

 続・言葉たち・名曲たち

言葉たち・名曲たちに対して、掲示板やDMに感想をお寄せいただきましたので転載します。いつものように★は男性、☆は女性の方の感想です。ピンク字は、私のコメントです。

☆「言葉たち 名曲たち」 には大いに共感しました。よくお調べになっているのにも感心しました。随分変てこな「〜たち」が闊歩しているのですね。日本語に複数形がないからなのでしょうか。NHKまでも使っているなんて嘆かわしいです。国語学者にこの資料を突きつけたいくらいです。

小椋佳の「愛 燦燦」を聞いたときに、「未来たち」「過去たち」という歌詞を聞いて、この作詞って何なのと思いました。ホントに変な日本語だと思います。

原点は国語教育の問題にまでいくかしら?最近話題のケ−タイ小説というもの私は見たことありませんが、どんな日本語の小説なのでしょうね。なんだか自分の日本語をさておき心配になってきました。

まあ小椋佳さんの「愛 燦燦」に、そんな詞があるのですか?美空ひばりが歌っていたヒット曲ですね。私はメロディーはすぐ出てきますが、歌詞まで気づかなかったわ。「愛燦燦」の歌詞を調べてみました。

愛 燦燦(さんさん)と この身に降って  心秘そかな嬉し涙を 流したりして
人はかわいい かわいいものですね  ああ 
過去達は 優しく睫毛に憩う 人生って 不思議なものですね
ああ 
未来達は 人待ち顔して微笑(ほほえ)む  人生って 嬉しいものですね


美空ひばりが歌っていたのだから、もう10数年前の歌詞ですね。そのころから、一流の作詞作曲家が、とんでもない「たち」を使っていたのですね。過去達・未来達は、例にあげたどれよりも、違和感を覚えますが、みなさんはいかがでしょうか。(HARUKO)

☆はじめにこういう使い方をしたのはだれでしょうね。最初に使った人にちょっとそのセンスにカンパイしたいような気がしないでもないですが、すぐそのあとから便乗して、猫も杓子もというのは、日本人の癖なんでしょう。私もその一人かもしれない。犬や猫に餌をあげる・・・って聞いたときも違和感を覚えたのと同じような気持ちですね。

最初に使った人は、もしかしたら小椋佳さんかもしれませんね。私は言葉に敏感でないことがよくわかりました。「愛燦燦」を聞いても、気づかなかったのですから。(HARUKO)

★「・・たち」面白く拝見しました。私も道具に「たち」を付けるのは日本語の乱れで、漫画チックと考えます。

なるほど!漫画チックと考えれば、怒る気も失せますね。(HARUKO)

☆「〜たち」は、言われてみると結構目に付きますね、変な日本語が増えてますね。私もちょっと注意深くいろいろな文章を見てみようと思います。

「変な日本語」と嘆くのは、なにも今に始まったことではなく、常に年寄りや識者を嘆かせている問題だとは思うのですが・・。(HARUKO)

★なるほど、なるほど・・・と感心して読み終わりました。私も以前から「ぼく的には・・・」という言葉には強い違和感を覚え、今でも好きになれない言葉になっています。確かに世の流れというのか、多勢に無勢というのか、仕方がないと思わざるを得ませんね。

今回の主題である「・・・たち」については、これまで気がつきませんでした。例に挙げられているほど多く遣われていたとは驚きです。私も「・・・たち」は主として「人」や人格化した「動物たち」などに遣うものと思っていましたが、こういう遣い方もあるのだと再認識しました。

日本語には複数を表現する全てに共通の接尾語はありません。若い人たちが作り出した造語ということでしょうか。

なお、日本語の複数表現については、作家の森博嗣さんのブログ(http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2006/06/post_471.php )に面白い説明がありました。ご参考までに。

時宜に適ったブログの紹介をありがとうございました。さすが作家だけあり、説明がわかりやすいですね。クリックすれば読めますが、クリックが面倒な人のために、転載します。森さん!お許し下さい。(HARUKO)

「1人の男が〜」や、「すべての問題は〜」といった日本語は、かつてはなかった。数量を示す場合には、「2つのリンゴがある」とは言わず、「リンゴが2つある」というのが日本語らしい言い回しだ。「何本もの樹に囲まれて」ではなく、「樹が何本も取り囲んで」と言っていた。この数に関する形容の前後や、受け身の表現などは、明らかに英語を訳したことによって生まれた日本語だと思われる。

 日本語に複数形がないのは、(これは単なる僕の想像だけれど、)複数個存在することが、物体の性質としてではなく、物体の動作として受け止められていたからだ。
 「2人の人たちがやってきた」のではなく、「人が2人でやってきた」のである。「2人の人たち」は明らかに聞き慣れない。「2人の人がやってきた」でもまだおかしい。これでは、「2人の人」という特別な存在を匂わすニュアンスになる。


 「多くの葉が茂る」ではなく、「葉が多く茂る」と言うのは、「多くの葉」という存在ではなく、葉という存在が、「多く」という動作をしている、と認識しているのだ。
 豆を食べるとき、1つ食べ、2つ食べ、3つ食べて、そこでやめる。何を食べたのか、ときかれれば、英語では「3つの豆」を食べことになるが、日本語では、豆を「3つ食べた」というように、あたかも動作の繰り返し回数のように(副詞的に)形容する。

 喫茶店で「2つのコーヒーを」とは注文しない。「コーヒーを2つ」と言う。「2つのコーヒー」が特別に存在しているわけではない。幾つもあるコーヒーではあるが、それを「2つ運んできてほしい」という意味になる。


☆その後、気をつけてみるようになりました。そしたらあるわあるわ。今日はこんなチラシを見ました。「贈り物にピッタリなステキな作品たち」。ぴったりも素敵もカタカナが定着してしまったのかしら。

カタカナにすることによって、微妙なニュアンスの違いを表している場合もありますね。例えば、「怖い」「こわい」「コワイ」では、感じが違います。でも本来は、カタカナは外来語の表現の時に使う気がしますけど。(HARUKO)

★HPの旅行記を読んでいると、やたら「〜たち」が目に付き、違和感がある。素人の書いた文にいちゃもんをつけるのも大人げない。いざ自分が文章を書くとなると、そう簡単にはいかない。それを考えると、大目に見ないといけないのかもしれんですな。

私もHPの中で、そういう「たち」をよく見ますよ。だんだん慣れっこになっている自分がコワイですね。(HARUKO)

☆私的には(笑)、「鳥たち」や「虫たち」や「動物たち」にも、ちょっと違和感があります。鳥も動物も生き物ですが、人間じゃないからでしょうか。「歴史を感じる建物たち」「2000年前の遺跡たち」の表現を見て以来、鳥たちの方がまだマシと思うようになりました。慣れって恐ろしいですね。

遺跡たち、建物たちについては、私も気になります。重厚で、ど〜んと構えている物なので尚更そう感じるのかもしれませんね。(HARUKO)

★感覚として、英語を使う人の数に関する意識が、日本語に翻訳して捉えている日本人と同じと考えるのは正しいのかどうか・・・。逆に、複数的表現で日本人が物を捉えているつもりになっていることが、欧米人の数的感覚と接近すると考えるのは正しいのかどうか・・・。
今、直感的に思っただけですが、自分も含めて、表層的にしか生きていない者が、論理的感覚を身につけるのは、翻訳的生き方では無理だと思います。「的」を多用しましたが、違和感はありますか?

複数の表現について、上記の作家・森博嗣氏の考えと共通していますね。フフフ、この場合の「的」には、まったく違和感はありませんわ。もっとも、一文に4つもの「的」を使ったら、文章家にはおしかりを受けるかもしれません(笑) (HARUKO)
(2007年11月22日 記)

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