イスラエルの旅13(最終回)
 エルサレム 4

2007年11月7日(水)-10日目

 エルサレム市内観光の続きを書いている。エルサレムは旧市街と新市街に分かれている。新市街は、旧市街とはまったく別の近代的な顔を見せる。首都としての機能をはたす国会もある。世界はエルサレムを首都として認めていないが、イスラエルは国会をここに置いている。

 国会前を素通りしてそぐ側にあるイスラエル博物館へ行った。今回の旅で初めて空模様が怪しくなってきた。風も強くなり寒い。半袖しか着ていない人は震えていた。

 まず野外でソロモンの頃からのエルサレムの模型を見た。このように発展してきた・・と説明を受ける。寒くてろくに聞いていなかったが、ソロモンやダビデ時代の神殿の豪華さは模型からもわかる。

エルサレムの模型 死海写本館 杉原千畝氏立て札
野外にある全盛期の頃のエルサレムの模型。 クムランで発見された写本が展示してある死海写本館。 ユダヤ人を救った杉原千畝(せんぽ)氏の立て札。

 博物館の目玉は別に建てられた死海写本館。クムラン(イスラエルの旅6参照)で発見された古代ヘブライ語の聖典を収めてある。写本が入っていた壺の蓋をかたどったので、外観がユニークである。羊皮紙に書かれた死海文書がたくさん展示してあった。

 ヘブライ語がまったく読めないので内容はわからないが、5日前にクムランを訪れているだけに、あの洞穴から見つかった文書だと思うと感慨深い。石に刻まれた古い文書はたくさん見ているが、紙に書かれたものはエジプトのパピルスぐらいしか見ていない。巻物以外にクムラン教団の日用品(櫛・サンダル・ショール・金槌、釘など)もあった。

 旅の最後の見学地はヤドバシェムだ。ヤドバシェムは、ヘブライ語で名前と記憶の意味。第2次大戦中に、虐殺された600万人のユダヤ人の記憶を永久に保存するために作られた。ほとんどが映像や写真によるものだが、ナチスの行為が、これでもかこれでもかと展示してあった。アウシュビッツを見学したときほどの衝撃がないのは、写真や映像が主だからかもしれない。

庭には、ユダヤ人を救った外国人のネームプレートが立っていた。日本人では杉原千畝氏だけ。リトアニア大使館勤務の時に、日本への通過ビザを発行して、約6000人のユダヤ人を救ったことは日本でも知られている。杉原さんが救った人達の子孫は、何人に増えているのだろう。

本館とは別の「子供記念館」の内部は暗い。壁全体が鏡で、そこにロウソクが無数に灯っている。そんな雰囲気の中で、犠牲になった子ども達の名前がゆっくり読み上げられていた。

ホテルへの帰り道にスーパーマーケットに寄ってもらった。死海の塩やチョコレートを土産に買った。
                                          <エルサレムのグランドコート泊>

11月8日(木)・9日(金)−11日目12日目

 8日の6時55分(テルアビブ発)→オーストリー航空で→9時40分(ウイーン着) 13時55分(ウイーン発)→オーストリー航空で→9日9時30分(成田着

巡礼証明書現地の旅行会社から「巡礼の証明書」(左)ごときものもらった。ご丁寧に各人の名前入りだ。巡礼で来たわけではない私は、一瞬ちゅうちょしたが、気軽に考えればいいのだと受け取った。

 朝3時に、ホテルを出発してテルアビブへ。テルアビブの空港の荷物検査は徹底していた。レントゲンを通して、怪しそうなものがあるとスーツケースを開けられる。これまでの海外旅行では1度も「開けろ」と言われたことはなかったが、今回はそうはいかなかった。死海の塩が怪しかったらしい。実物は正真正銘の塩だから無罪放免。

 密度が濃い旅行だった。期待して旅に出ても、がっかりすることも多いが、今回の旅は期待を裏切らなかった。しいていえば、素顔のユダヤ人やパレスチナ人に会えなかったことが不満だ。ガイドは日本人、ドライバーはイスラエルアラブ人だから、ユダヤ人とは行動を共にしていない。夫は、「嘆きの壁」を見ていたときに、正当派ユダヤ教徒が説明してくれたという。ところが、最後に献金を強要されてがっかりしていた。私にはこんな接触すらなかった。 

 パレスチナ人とイスラエル人の言い分。どちらが正しいかなどは、私ごときがわかるはずもない。しかし、アブラハムもモーセも、聖書が言う「約束の地」を目指した。しかし、そこには元々住んでいるカナン人がいたのだ。そのカナン人にしてみれば、アブラハムやモーセの行動は勝手きわまりない。同じように、20世紀になってさえ、約束の地だからと追い出されたパレスチナ人がいる。こんなに理不尽なことはないと、私は思う。

映画「NAKUBA」のパンフレットしかし、世界各地で嫌われているユダヤ人も気の毒だ。特に、ユダヤ人というだけで、迫害された時代がほんの少し前まであった。今も差別されているという話を聞く。彼らはなぜ嫌われ者なのか。なぜユダヤ人には優秀な人物がたくさん輩出しているのか。こういった長年の疑問は、わからずじまいだった。

宗教は人の心を救うはずだが、とんでもない争いを引き起こすこともある。何10年も生きてきた私にも、いまだに分からないことである。

 帰国してから「NAKUBA-パレスチナ1948-」という映画(左)を見た。イスラエルの独立宣言から60年を契機に、フォトジャーナリストの広河隆一氏が作成した。1948年の第1次中東戦争でパレスチナ人70万人が難民化した。この日を「NAKUBA(大破局)」と呼ぶ。

 理想社会だと思えるキブツが、実はアラブの村を破壊して出来た、多くのイスラエル人はパレスチナ難民について自分たちには責任がないと信じている、イスラエルが1948年に引き起こした暴力は今も繰り返されている。

朝日新聞の記事 こういう事実が豊富な映像を元に語られる。ホロコーストのむごさを経験したユダヤ人が、なぜこんな事が出来るのだろう。人間の(さが)のやっかいさを思うばかりだ。そんなことを考えていたときに朝日新聞の「ひと」(2009年3月5日)に、「イスラエル批判を続けるホロコースト生存者の娘 サラ・ロイさん」の記事(左)が載った。

 アメリカのハーバード大の上級研究員を務めている彼女は、「ホロコーストのむごさを心に刻む者たちが、なぜこんなことをできるのか」。イスラエルによるパレスチナガザ地区封鎖や攻撃を著作で批判してきたという。こういう人がいることに、少し安堵感を持ちつつ旅日記を終える。(2009年6月16日 記)


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