イスラエルの旅13(最終回) 2007年11月7日(水)-10日目 エルサレム市内観光の続きを書いている。エルサレムは旧市街と新市街に分かれている。新市街は、旧市街とはまったく別の近代的な顔を見せる。首都としての機能をはたす国会もある。世界はエルサレムを首都として認めていないが、イスラエルは国会をここに置いている。 まず野外でソロモンの頃からのエルサレムの模型を見た。このように発展してきた・・と説明を受ける。寒くてろくに聞いていなかったが、ソロモンやダビデ時代の神殿の豪華さは模型からもわかる。
博物館の目玉は別に建てられた死海写本館。クムラン(イスラエルの旅6参照)で発見された古代ヘブライ語の聖典を収めてある。写本が入っていた壺の蓋をかたどったので、外観がユニークである。羊皮紙に書かれた死海文書がたくさん展示してあった。 旅の最後の見学地はヤドバシェムだ。ヤドバシェムは、ヘブライ語で名前と記憶の意味。第2次大戦中に、虐殺された600万人のユダヤ人の記憶を永久に保存するために作られた。ほとんどが映像や写真によるものだが、ナチスの行為が、これでもかこれでもかと展示してあった。アウシュビッツを見学したときほどの衝撃がないのは、写真や映像が主だからかもしれない。 庭には、ユダヤ人を救った外国人のネームプレートが立っていた。日本人では杉原千畝氏だけ。リトアニア大使館勤務の時に、日本への通過ビザを発行して、約6000人のユダヤ人を救ったことは日本でも知られている。杉原さんが救った人達の子孫は、何人に増えているのだろう。 本館とは別の「子供記念館」の内部は暗い。壁全体が鏡で、そこにロウソクが無数に灯っている。そんな雰囲気の中で、犠牲になった子ども達の名前がゆっくり読み上げられていた。 ホテルへの帰り道にスーパーマーケットに寄ってもらった。死海の塩やチョコレートを土産に買った。 11月8日(木)・9日(金)−11日目12日目 8日の6時55分(テルアビブ発)→オーストリー航空で→9時40分(ウイーン着) 13時55分(ウイーン発)→オーストリー航空で→9日9時30分(成田着) 現地の旅行会社から「巡礼の証明書」(左)ごときものもらった。ご丁寧に各人の名前入りだ。巡礼で来たわけではない私は、一瞬ちゅうちょしたが、気軽に考えればいいのだと受け取った。 密度が濃い旅行だった。期待して旅に出ても、がっかりすることも多いが、今回の旅は期待を裏切らなかった。しいていえば、素顔のユダヤ人やパレスチナ人に会えなかったことが不満だ。ガイドは日本人、ドライバーはイスラエルアラブ人だから、ユダヤ人とは行動を共にしていない。夫は、「嘆きの壁」を見ていたときに、正当派ユダヤ教徒が説明してくれたという。ところが、最後に献金を強要されてがっかりしていた。私にはこんな接触すらなかった。 パレスチナ人とイスラエル人の言い分。どちらが正しいかなどは、私ごときがわかるはずもない。しかし、アブラハムもモーセも、聖書が言う「約束の地」を目指した。しかし、そこには元々住んでいるカナン人がいたのだ。そのカナン人にしてみれば、アブラハムやモーセの行動は勝手きわまりない。同じように、20世紀になってさえ、約束の地だからと追い出されたパレスチナ人がいる。こんなに理不尽なことはないと、私は思う。 しかし、世界各地で嫌われているユダヤ人も気の毒だ。特に、ユダヤ人というだけで、迫害された時代がほんの少し前まであった。今も差別されているという話を聞く。彼らはなぜ嫌われ者なのか。なぜユダヤ人には優秀な人物がたくさん輩出しているのか。こういった長年の疑問は、わからずじまいだった。 宗教は人の心を救うはずだが、とんでもない争いを引き起こすこともある。何10年も生きてきた私にも、いまだに分からないことである。 帰国してから「NAKUBA-パレスチナ1948-」という映画(左)を見た。イスラエルの独立宣言から60年を契機に、フォトジャーナリストの広河隆一氏が作成した。1948年の第1次中東戦争でパレスチナ人70万人が難民化した。この日を「NAKUBA(大破局)」と呼ぶ。理想社会だと思えるキブツが、実はアラブの村を破壊して出来た、多くのイスラエル人はパレスチナ難民について自分たちには責任がないと信じている、イスラエルが1948年に引き起こした暴力は今も繰り返されている。 こういう事実が豊富な映像を元に語られる。ホロコーストのむごさを経験したユダヤ人が、なぜこんな事が出来るのだろう。人間の アメリカのハーバード大の上級研究員を務めている彼女は、「ホロコーストのむごさを心に刻む者たちが、なぜこんなことをできるのか」。イスラエルによるパレスチナガザ地区封鎖や攻撃を著作で批判してきたという。こういう人がいることに、少し安堵感を持ちつつ旅日記を終える。(2009年6月16日 記)
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