イスラエルの旅6
 ゴラン高原とガリラヤ湖から死海まで

2007年11月1日(木)-4日目

ガリラヤ湖周辺の観光後、予定にはなかったゴラン高原のワイナリーイスラエルの旅4の地図参照)に行った。ガイドのSakさんがワインを買いたかったのか、だれかが頼んだのか。ゴラン高原は南北70キロ、東西25キロと広い。2万人のユダヤ人が住んでいる。砂漠が65%を占めるイスラエルにあって、ゴラン高原の肥沃な土地は、非常に貴重だ。

イスラエルは1967年の第3次中東戦争でシリア・エジプト・ヨルダンと戦った。エジプトからシナイ半島を、ヨルダンからヨルダン川西岸を奪った。ゴラン高原を巡ってシリアとも戦った。それ以来ゴラン高原は、イスラエルが管理し、国連のPKOが派遣される休戦地区になっている。

 道路沿いにある有刺鉄線や三角印は、シリアが残した地雷の場所を示している。これを見るときな臭さは拭えないが、春の花が一斉に咲くゴラン高原はほんとうに美しいと聞いている。イスラエルには2500種もの花が自生していて、Sakさんは世界一だという。でも私は、トルコの花の種類は世界一と聞いたばかりだ。

ゴラン高原でのワインづくりは、1972年にカリフォルニアの指導で始まった。早くも1987年には、ロンドンのコンペで金賞と特別賞を受賞するまでになった。ゴラン高原の気候がワイン作りに適していたこと、コンピュータ管理で高い品質を目指したことが背景にある。特に「ヤルデン」は、世界的に認められるブランドになった。ゴラン高原のワインと言えば話題になりそうなので、「ヤルデン」を2本買った。

ゴラン高原の地雷 ゴラン高原のワイナリー 代表的なワイン
ゴラン高原の地雷が残っている所 ワイナリー 代表的なワイン。左2本がヤルデン。

今日の行程の最後はツファットイスラエルの旅4の地図参照)である。ツファットは聖書にも登場する古い町で、エルサレム・ヘブロン・ティベリアと並ぶユダヤ教の聖地だそうだ。16世紀頃、スペインを追われたユダヤ教徒が住み始め、優れたラビが多く出たこともあり、ユダヤ教神秘神学校の発祥の地にもなった

今まで見てきたアラブ人の町や、キリストの聖地とは違う雰囲気を持った町だ。ユダヤ教独特の服装をした人、芸術家らしい人が目立つ。シナゴーグで夕方のお祈りをしていたので、中をのぞいた。入り口にいた人が「あっちだ」というしぐさをする。追い出されたのかと思ったが、男女の部屋が分かれていて「女性はあっちへ」ということだった。追い出されたのではなかった。 <ティベリアのカイサルホテル泊>

ユダヤ人 笛を吹いていたユダヤ人 シナゴーグの内部
ユダヤ人独特の格好をした人が多い。 笛を吹いていたユダヤ人 シナゴーグの内部

11月2日(金)−5日目

今日はガリラヤ湖から死海まで南下する。この国道90号付近は、シリア・アフリカ地溝帯である。シリアからガリラヤ湖、ヨルダン川、死海を通ってエイラット、さらにアフリカのビクトリアの滝まで、地溝帯つまり地球の裂け目が続いている。

 地溝帯のいちばん低いところが死海である。溝の東側はヨルダンで、溝と国境がほぼ一致している。不思議なことに、地溝帯は400万年以上前にアフリカで発生した人類が各地に散らばる道筋にもなった。さらに不思議なことに、アフリカで冬を過ごし夏に北ヨーロッパへ向かう渡り鳥は、この地溝帯の上空を行き来するという。

ガイドも添乗員もひとことも言わなかったが、国道90号は、パンレスチナに属する地域。通過することは合意ができているのだろう。結果的には何ごともなく、パレスチナのエリコの脇を通り抜けた。

ヘブライの民を引き連れてエジプトを脱出したモーセは、荒野を40年間もさまよったあげく、ネボ山に着いた。約束の地を目にしたモーセは、そこで亡くなった。後を託されたヨシュアがエリコの町に入ったとされる。エリコは城壁で囲まれた最古の町で、ヘロデ王の宮殿もあった。洗礼者ヨハネが洗礼を受けた地で、イエスもこの町に来ている。出来ることなら見てみたいが、イスラエル軍とパレスチナ人の銃撃戦も行われたことがある。そんな所へは行けない。

ヨルダン川 ホテルを出発後間もなくして、ヨルダン川(左)が見えた。車窓からだから、小川のようにしか見えない。Sakさんは「クリスチャンの団体を案内するときは、川のほとりまで行くんですよ。遠くから見ても同じだと思うけど」と言う。そりゃ、クリスチャンなら、イエスが洗礼を受けたヨルダン川の水に触ってみたいだろう。私だって、ヨルダン川に浸かってみたい。

 でも私たちのツアーは一般向けだから、巡るのは聖地ばかりではない。ギリシャ・ローマ遺跡も行くし、十字軍の遺跡もまわる。

 まずベルブヤールという十字軍ヨハネ騎士団の要塞に行った。前に見た十字軍の要塞は復元してあったが、ここは廃墟のままだ。廃墟とはいえ、アーチ型の門・貯水場・宿舎・台所などは判断できる。

 2階の部分までおそるおそる登ってみた。きちんとした階段があるわけでない、もし転げ落ちたら大変だと思いながら、高い所に登ってみたくなる。緑の多いエズレル平野が広がっていた。イスラエル産として日本でも売っている「スウィーティ」はこの平野で収穫されるという話だ。

十字軍要塞の門 要塞の2階 スウィーティ
ベルブヤールのアーチ型門。 2階から見た要塞。 日本で買ったイスラエル産スウィーティ。

ベルブヤールの少し南に、ギリシャ・ローマ遺跡のベトシャン国立公園がある。BC5000年ぐらいの遺構もある古い歴史を持つ地域だ。ローマ時代の遺跡も、広大な敷地に広がっている。祭壇跡・王様のモザイク・公共浴場・支柱・公衆トイレ・円形劇場などおなじみのローマ遺跡。

ローマ遺跡支柱 浴場跡 公衆トイレ
ベドシャンのローマ遺跡の支柱。 浴場の施設。 公衆トイレ。

 死海の北端を通り過ぎると、そこはクムラン国立公園だ。昼食後にクムランの遺跡を見学した。クムラン教団は、エッセネ派と言われるユダヤ教徒の一派。ユダヤ教団を離れ独自の修道的な生活をするために、BC8世紀にクムランに住みはじめた。最盛期のBC130年には数千人がいたが、ローマ軍との戦争でAD68年に逃亡。

死海文書が入っていた壺クムランの洞窟 逃亡するときに、いそいで洞窟に文書を隠した。その洞窟(左)のひとつをベドウィンの羊飼いの少年が1947年に発見。その後11の洞窟から見つかった600の壺(右)には、イザヤ書・旧約聖書の写本が納められてあった。これらは死海文書と呼ばれ、20世紀最大の考古学発見と言われる。

 20世紀最大の発見だ・・とあちこちで聞いているから、聖書の世界では最大の発見だったぐらいに考えたほうがいい。でも、この文書が発見される前のいちばん古い聖書は10世紀のもの。紀元前の写本発見は、世紀の大発見には違いない。

いつの時代、どこの国でも少年の冒険心が、世紀の発見につながっている。1947年といえば、イスラエルが建国を宣言した年である。建国に燃えるユダヤ人には、はずみになった事だろう。そのころの日本は敗戦直後、旧約聖書の写本が発見されても大騒ぎをするような状況ではなかったと思う。

 5時ころ、死海のほとりのエン・ボケックのホテルに到着。<エン・ボケックのシェラトンモリア泊>
                                               (2009年4月2日 記)