ヨルダン・シリア・レバノンの旅 12
パルミラ遺跡
 (シリア)

2005年1月17日(月)-7日目-

 マルーラ村を出てしばらく走ると、イラクの標識(右)があった。ここで写真ストップ。パルミラまで87キロ、イラクまで152キロ。今回の旅では、最もイラクに接近した地だ。周囲は真っ暗だが、全員がバスから降りた。標識撮影のためにバスを停めるのは滑稽だが、イラクに入国出来ないからこその心遣いだ。

 バグダッドカフェで休憩。シリアなのに、なぜバグダッドと言うのか聞きそびれたが、男の子がふたり(左)いた。「孫のかわりに、さらって帰りたい」と何人かがつぶやいたほど可愛らしい。カフィーヤ(赤白の被り物)を、エガール(黒い輪)で留めている。

 同行者のSさんはポラロイドを持参しているので、このときも、手渡していた。2人とも写真が現れるまで、振る動作をしている。ポラロイドを知っているのだ。

 7時頃パルミラのホテル到着。遺跡を模した柱が並ぶロビー(右)を見て、明日の観光に期待が高まる。<パルミラのシャームパレスホテル泊>


1月18日(火)-8日目-

 今日は、パルミラ遺跡を見学することになっている。中東の3Pとして紹介される遺跡は、ヨルダンのペトラ、シリアのパルミラ、イランのペルセポリス。パルミラ遺跡は、シリア観光のハイライトであるが、昨日の曇り空に続き、小雨が降ったり止んだりの傘が手放せない日になってしまった。

 私は中東の3Pを全部見学したことになるが、イランのペルセポリスも雪交じりの日だった。ついてないというより、こんな季節に来るのが間違いなのだ。ペルセポリスも1月の見学だった。

 パルミラは、ナツメヤシを意味するギリシャ語の「パルマ」から来ている。今でもナツメヤシが広がり(右)、オアシス都市になっている。遠くにかすんで見えるのがパルミラ遺跡。

 東西貿易の中継点として栄えていた頃は30万人も住んでいたが、現在は7万人にすぎない。観光と農業(ナツメヤシ・オリーブ・イチジク・ザクロ)で生活している。

 AD106年にローマの属州になったが、ある程度の自治も許されていた。260年ころ、首長オダナイトが独立国を創始。夫の没後に妻のゼノビアが、ローマ帝国に独立宣言をした。女王ゼノビア(268〜272年在位)は、クレオパトラと対比されるほど、誇り高い女傑として有名である。抵抗むなしく、ついに272年、皇帝アウレリアヌスの手で捕らえら、ローマで処刑された。ゼノビアが、ローマの属州になることを拒み続けた理由は、何だったのだろう。

 遺跡の面積は12平方q。まだ25%しか発掘していないというが、それにしては広大だ。周囲に現代人の住居がないので、遺跡の広さが目立つのかもしれない。

 最初に、遺跡の西郊にある「墓の谷」へ行った。250基以上の墓があり、エジプトの「王家の谷」のようなものだ。

 エジプトのミイラは内蔵や脳を取り除いて丁寧に作るが、パルミラのミイラは、ミュルラという防腐剤で簡単に作ったらしい。

 左上写真の左端、塔になっている墓・エラベル家の塔式墓を見学。AD103年に作られたエラベル家の墓は、高さ24bもある4階塔式の墓だ。各階に48体の遺体が収容され、入口は死者のレリーフ(右上)で飾られている。外観より内部が立派だ。

 エラベル家はナボ神殿を寄付しているので、勢力のある貴族だったのだろう。墓は地下に作るのが、古今東西の常識だと思っていたが、マンション墓が、すでにここにあった。

 次は、3兄弟の墓へ。AD146年に作られた3兄弟(マレ・ナミ・サーディーン)の墓。これは、地下墳墓である。後に商売に失敗したので、他の人にも分譲した。墓を分譲するという発想が、すでにあったことが面白い。

 帰国後すぐの1月28日の日経新聞を友人が切り抜いて渡してくれた。「パルミラ遺跡の地下墓を調査している奈良・パルミラ遺跡発掘調査団は、象牙製のピンや青銅製の腕輪などを発見した」と載っていた。日本人が発掘にたずさわっていることは、この記事を読むまで知らなかった。奈良とパルミラは、シルクロードの起点と終点といってもいい。そのご縁なのか、奈良の調査団だ。以前にも墓からは染織など多数が出土し、当時の生活を知る上で、貴重な史料になっている。

 「墓の谷」の東方に、パルミラ遺跡がある。パルミラの人達のよりどころになっていたのが、バール神殿(左)である。バール神(宇宙神)を最高神としていたので、内部にはバールや太陽神、月の神が祭られていた。AD32年の建築だが、十字軍との戦いで城塞として使ったので、その傷みもある

 バール神殿の道路を挟み向こう側に、凱旋門がある。遺跡全体は、空からの方が分かりやすいので、絵はがきを借用した(右)。

 凱旋門に続く、列柱道路の長さに圧倒される。柱の直径は95p、高さ9.5bのコリント式。もとは375対が両側にあったが、今は150本が残っている。

 ナバ神殿、円形劇場、四面門、アゴラ、キャラバン宿も残っている。
 
 ゼノビアが捕らえられた後に、徹底的に破壊されたと言われるが、これだけの遺跡が残っている。「石の建造物はいいな」と、日本の木造建築とつい比べてしまう。

 中東の3Pだから、何枚も写真を撮ったが、ヨルダン・シリアの旅だけでも、円形劇場は何枚も載せている。上空写真だけでご想像いただきたい。

(2005年10月2日 記)

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