日本史ウオーキング

 22. 長岡京と平安京(平安時代)

 一般的な時代区分では、平安時代の始まりを794年としている。「鳴くよ(794)鶯平安京」と覚えたものだ。桓武天皇が、今の京都に遷都したのが794年10月22日。時代祭が10月22日に行われるのも、これにちなんでいる。

長岡京と平安京の位置 しかし、桓武天皇の即位は781年、長岡京への遷都は784年。桓武政治の始まりは、平安時代より10数年遡る。

 桓武天皇が大和を棄てて、山背(やましろ・遷都後は山城の字に変更)の長岡に遷ったのは、「天智天皇の皇胤であることの皇統意識に目覚めたからだ」と村井康彦氏は「平安京物語-小学館-」の中で述べている。

 奈良時代は、ずっと天武系の天皇が支配していた。ところが孝謙天皇のあとに適任者がなく、天智天皇の孫・光仁天皇とその息子・桓武天皇(藤原不比等の項の系図参照)が続けて即位した。天智系天皇が復活したことになる。

 天武系の都である大和を離れたかった、仏教勢力から離脱したかった、水上交通の充実をはかろうとした、桓武天皇と関係が深い秦氏の本拠地が桂川流域だったことなど幾つかが、遷都の理由にあげられる。

 左地図(「京都・観光文化時代MAP-光村推古書院-」のコピー)でわかるように、長岡京は、桂川・宇治川・木津川の合流地点で水上交通の要。そして、渡来人・秦氏の本拠地にも近い。

 長岡京域は、今の向日(むこう)市・長岡京市・京都市にまたがっている。以前は「まぼろしの都」と言われたが、発掘調査で本格的な都だったことがわかった。

 ところが、わずか10年で長岡京を棄ててしまう。平安京に遷ったのはなぜか?桓武天皇の側近で、長岡京造営の中心人物だった藤原種嗣が、反対派に暗殺された。桓武天皇は、ただちに実行犯を斬首し、謀反の疑いがある弟の早良親王を幽閉した。早良親王は無罪を訴えたが、淡路に流される途中で亡くなった。早良親王の死後、桓武天皇の夫人・聖母・皇后が相次いで亡くなり、息子も重病にかかった。洪水や疫病の災難もあった。

 これら災難が、早良親王の怨霊によると思いこんだ桓武天皇は、「怨霊から逃れるには、新しい都に遷ったほうがいい」という和気清麻呂の進言を受け入れた。怨霊を恐れるぐらいなら、罪がはっきりしない弟を殺さなくてもいいと思うが、日本の歴史上、兄が弟を、弟が兄を殺す例は他にもたくさんある。

 こんな事もあって、新しい都は、怨霊封じのための方策が万全だった。鬼門である北東の比叡山に延暦寺、北方には鞍馬寺や貴船神社、羅城門の左右には東寺と西寺、さらに南方には方除けで名高い城南宮を創建して、都をガードした。この中で、西寺以外は存続している。

 寺社は残っていても、肝心の平安京を思い起こさせるような遺跡はほとんどない。平安時代が終わっても、京都には皇居が残った。平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸と、都であり続けた。だから、京都には1000年の都の歴史、もちろんそれ以前の歴史も積み重なっている。いま現在もたくさんの人が生活を営んでいる。廃墟にならずにすんだとはいえ、平安京だけに限って言えば、実態は非常にわかりにくい。

 素人にわかる資料が少なくてなくて困っていたところ、2006(平成18)年10月、京都アスニーの1階に「平安創生館」が開館した。平安京ウオーキング1回目は、2007年4月。「私達のために開館したようなものね」と、あつかましい解釈をしながら、中京区丸太町通り七本松西入の京都アスニー(京都市生涯学習センター)を訪れた。

京都アスニー入口の造酒司あと 入口付近の床には、色違いの石の図形(左)が描かれている。この図形は、掘立柱建物跡の柱穴を示したものだ。写真中央の碑には「史跡平安宮造酒司倉庫跡」と書いてある。京都アスニー建設に先立つ発掘調査で、ここが平安宮内の造酒司(みきのつかさ)だったことがわかった。儀式に使う酒を醸造していた場所。

 創生館の中央には、平安京の100分の1の復元模型が置いてあった。実際の平安京は南北5.2キロ、東西4.5キロ。大内裏は南北1.4キロ、東西1.2キロ。東西の中央に幅84bの朱雀大路が通っていた。朱雀大路の北端には朱雀門、南端には羅城門。大内裏には、皇居・政庁の朝堂院・宴会所の豊楽院・2官8省の役所が建ち並んでいた。

 他に豊楽殿の復元模型・鴟尾の復元模型・造酒司の出土品も展示されていて、平安京の概要を掴むことができた。

 このときは、JR二条駅に近いホテルに2泊した。千本通り(朱雀大路)に面し、朱雀門跡は歩いて1分。平安宮の面影探しには、ここほど絶好のホテルはない。

平安宮と船岡山のイラスト 模型を見た後は、本物の探索だ。まず近くの大極殿・朝堂院・朱雀門跡を探した。石碑が建っているだけで、当時を偲ぶよすがは何もない。最近の発掘で、大極殿跡は、碑が建っている場所と少し違うことがわかった。

 左のイラストは京都市生涯学習センターが発行している、平安京図会「史跡散策の巻」のコピー。「復元模型の巻」との2巻1組で300円。現在の京都市街図と平安京を重ねた地図がついている優れもの。この地図がなかったら、碑しか建っていない所を探し当てるのは大変だったと思う。

 次は、北方の船岡山へ。船岡山は都の枢軸線(朱雀大路)の延長上にある。大徳寺近くの「船岡山バス停」で下りると、一帯は公園に整備されていた。わずか112bの高さだが、眺望はある。草木が邪魔をしているとはいえ、平安京創設のころと変わらない碁盤の目の街が見て取れた。

 「あの辺りが朱雀門ね」「そのずっと先が羅生門ね」「あの通りが朱雀大路」など話していたら、側にいた地元のオジサンがあわてたように言った。「朱雀門も羅生門も今はあらしまへんで〜。朱雀大路は今は千本通りと言いますねん・・」。

 私達は半分、平安京の世界に浸っているからこんな会話をしているのだが、とんでもないことを話しているオバチャン達だと思ったことだろう。こういった親切で少しおせっかいの人々に出会うことで、旅は面白くなる。

 この船岡山は、平安京の概要を知るには実に良いところだ。左に比叡山が、右に双ヶ丘や左大文字山が見える。山々に守られた王城の地だと実感できる。

 船岡山麓の大通りが一条通。宿泊ホテルは二条通りにある。散々歩き回った後だったが、「一条と二条などすぐよ」と他の2人を鼓舞して、千本通りを歩き始めた。四条通と五条通の間は歩いてもわずかなのに、ここはやけに遠くていささか疲れた。

 後でわかったのだが、一条と二条の距離は、四条と五条の距離の2.5倍もある。一条と二条の間だけは、例外的に距離が長くなっていた。平安宮(大内裏)の北の端が一条、南の端が二条だった。

 歩いて見えたことは、ほかにもあった。千本通りの歩道は、自転車が次から次に通るので、落ち着いて歩けやしない。でも、小さな豆腐屋さん・八百屋さん・魚屋さん・野暮ったい洋品屋さんが、私が知らない京都の一面を見せてくれた。1200年前に天皇と貴族しか入れなかった大内裏一帯は、実に庶民的な街に変貌していた。

 もっとも、創生館でもらった年表によると、貞観4(862)年の項に「このころの朱雀大路は、昼間は牛馬の放し飼いの場となり、夜間は盗賊の巣窟になった」とある。年代を限定しているだから、誰かの日記に記載があったのではないか。平安京遷都後100年にもなっていない時に、このありさまだ。

 都の正門の羅城門はずっと南にあるので、イラストにはない。羅城門は外国の使節も必ず通らねばならない正門だったが、芥川龍之介の「羅生門」、黒沢明監督の映画「羅生門」のごとく、早くから荒れ果てていたようだ。

 羅城門跡の石碑は、2007年11月に、京都駅西南の東寺から歩いて5分ほどの小さな公園内でやっと見つけた。最近の発掘の結果では、ここも位置が少しずれていることがわかった。

大極殿跡 朝堂院跡 朱雀門跡 羅城門跡
大極殿跡。上京区千本通丸太町上る西側の内野児童公園の中にある。 朝堂院跡。中京区丸太町通千本西入北側。朝堂院は平安宮の政庁として儀式を行った。 朱雀門跡。中京区西の京小堀町。朱雀門は平安宮南面の門。 羅城門跡。南区九条通千本唐橋の花園自走公園の中にある。都の正門に相応しい壮大なものだった。
(2008年5月23日 記)

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