日本史ウオーキング

 28. 怨霊封じの平安京(平安時代)

 陰陽道で政治を占う「陰陽寮」は、701年の大宝令に規定が作られた古い役所である。もともとは中国の陰陽五行説(木・火・土・金・水の5つの元素で万物の変転を説く)からきているが、日本で独自の発展をとげた。占いで政治を決めるなど今では考えられないが、古代の陰陽師は官職だった。

 桓武天皇の長岡京から平安京への遷都は、早良親王の怨霊に悩まされたのが一因と言われる。だから新しい都は、怨霊封じができる地を選んだ。平安京は、風水でいう理想的地形「四神相応」を満たしていた。

 東に川あれば「青龍」、南に池あれば「朱雀」、西に道あれば「白虎」、北に山あれば「玄武」。四神は東西南北の守護神で、高松塚古墳の壁画にも描かれているし、大相撲の土俵にかかる東の青房、南の赤房、西の白房、北の黒房も、四神から来ている。東は青と春、南は朱と夏、西は白と秋、北は黒と冬を表す。白虎隊・朱雀門・玄武洞など、四神は今の生活にも何気なく入り込んでいる。

 何度も京都を訪れていながら、こういう目で京都を眺めたことはなかったが、たしかに平安京の東には鴨川、南には巨椋池(1933年に干拓され今はない)、西には山陰道、北には船岡山日本史ウオーキング22参照)がある。

 イラストは、京都観光文化時代MAP-光村推古書院-の表紙をコピーさせてもらった。今の京都の中心は、もともとの平安京の中心より東に寄っているのでピンと来ないが、昔の朱雀大路、今の千本通りを中心に考えるとわかりやすい。

 さらに、鬼門(陰陽道では北東を鬼門と呼び悪霊や疫病が入るとされた)の方向・北東の比叡山に延暦寺を建てた。江戸城の鬼門にも寛永寺があり、今でも新築するときに玄関の方角を見てもらう人もいる。このように、陰陽道は後の世にも影響を与えているが、陰陽師が大活躍したのは、平安時代だった

 作家・夢枕獏さんによれば「平安京は百鬼夜行、魑魅魍魎の跋扈する空間で、この都の闇を背景にして陰陽師という職能者が存在できた」。都に忍び寄る魔物を撃退し、権力者たちに指針を与えた陰陽師は、占い師と霊能者と医者を兼ねた存在だった。その中でも藤原道長に仕えた安倍晴明は、もっとも信頼を集めた陰陽師。夢枕獏さんの小説が、野村萬斎主演の映画にもなり、漫画も登場している。

 地元で「せいめいさん」と呼ばれる晴明神社(上京区堀川通り一条上ル)を訪ねたのは、2007年4月。占いを信じていない私が、占い師を祀った神社を訪ねるのも妙だが、平安時代の物語には物の怪のたぐいがよく出てくる。それを退治した安倍晴明をの一端がつかめるかもしれないと、立ち寄ってみた。晴明の死後2年にして、住居跡に神社が建てられたという。実在した人間が神になった例では、非常に早い。それだけ平安時代の人々の信望も厚かったようだ。

本殿にお参りしているのは若い人が多い。 絵馬も五角形。 井戸にも五角形の星。

上は晴明神社の提灯。下はイスラエルの国旗。 晴明神社と安部晴明公屋敷跡の両方が彫ってある。 藤原道長に早瓜が献上された。晴明が占ったところ1個に毒がある。刀で瓜を割ると蛇がとぐろを巻いていた。 安部晴明にも縁が深い一条戻り橋。大正11年から平成7年まで実際に堀川にかかっていた橋。

 驚いたことに、境内のあちこちに五角形の星がある。提灯・絵馬・井戸などすべて五角形の星をかたどっている。神社でこんな星形を見たのは初めてだ。説明には「五角形の星は、晴明桔梗ともいい、陰陽道で使う祈祷呪符のひとつ。西洋でも魔よけの印に使われている」とある。そういえば、アメリカ国防省の名称もペンタゴン(五角形)だ。私は一瞬イスラエルの国旗を思いうかべたが、よく見るとイスラエルの国旗は六角形だった。

 境内に、平成7年まで実際に使っていた一条戻り橋が移築されている。晴明が自在に操った式神を封じ込めたのがこの橋。一条戻り橋は、源氏物語に「ゆくはかへるの橋」と書かれ、三善清行蘇生の話や渡辺綱の鬼女退治の伝説も残る。

 晴明神社で初めて見た五芒星を、その年の秋に東寺で見つけた。「あ!こんなところに五芒星が」と思わず叫んでしまった。東寺は、平安京遷都と同時に平安京を護るために作られたので、怨霊封じの工夫があるはずだと探していたのだ。

 金堂の鬼瓦(左)のうち、鬼門の鬼瓦にだけ星(右)がついていた。古刹は仏像や庭園ばかりではない。こんなワンダーワールドも隠されている。


 ところで安倍晴明(921〜1005年)は85歳で没している。平安時代にこんな長生きは珍しいためか、死んだのちに蘇ったという伝説が生まれた。その話が伝わっている京都の真如堂(左京区浄土寺真如町)を、3日前11月27日に訪ねた。真如堂は、哲学の道沿いにあるし、おりしも古都は紅葉の盛り。バスツアーや個人客で混み合っていたが、三重塔(左下)を覆い隠す紅葉は評判を裏切らなかった。

団体さんに混じり、お坊さんの説明を聞いた。「真如堂の不動明王は晴明の念持仏でした。晴明が死んだ時に、不動明王が閻魔さまに晴明の命乞いをしました。閻魔大王は、願いを聞き入れ晴明を蘇生させたんです」。

みぞうゆう」の出来事ですねと、麻生総理の無知を話に取り入れて笑わせる術も持っている。最後に「晴明のお札が400円です。お帰りにどうぞ」と商売も上手。

 「晴明蘇生図(右)を見に来たのですが、どこにあるのですか」「年に1回7月25日に展示します。晴明の不動明王も11月15日に公開します。写真は冊子に載ってます」ということで、冊子を買う羽目になった。

(2008年11月29日 記)
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