日本史ウオーキング

 29. 桓武天皇の生母は渡来人の子孫(平安時代)

 2002年の日韓ワールドカップを前にした記者会見で、天皇陛下は次のような発言をなさった。「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」

 桓武天皇の生母が渡来系の子孫であることは、中学教科書にも書いてある。韓国人へ差別感を持っている日本人が少なからずいて、特にその人が皇室崇拝者だったりすると、「天皇家に百済人の血が混じっていることを知らないのかしら」と、考え込んでしまう。

 教科書に記載があり、天皇陛下が公の場で述べられたこともあり、天皇家に渡来人の血が入っていることを取り上げることにした。渡来人は、4〜6世紀に朝鮮半島や中国から日本に来て先進技術をもたらしてくれた。政治や文化の発展にも大きく寄与した。

 桓武天皇が長岡京や平安京に遷都した理由(日本史ウオーキング22参照)のひとつは、桂川流域に勢力を持っていた秦氏など渡来人の後ろ盾があったからと言われる。

 桓武天皇が渡来人を頼りにしたのは、自分が渡来人の血を引いているからだ。母の高野新笠の父・和氏は「百済武寧王の子の純陀太子より出ず」と『新撰姓氏録』にある。

 「桓武の渡来系重視の方針が平安京に現れたのが、今木神(いまのきかみ)と称された平野神社の創建だ」と井上満郎京都産業大教授は「平安京の風景−文英堂−」の中で書いている。「今木」とは「今来」、新たに渡来したという意味で、渡来人を示す言葉。平野神社は百済系氏族の神を祀っていると井上氏は述べている。

 しかし、平野神社の公式サイトには「今木神は百済王なりの説が時折出されますが、学問上は否定されています」とある。井上氏と平野神社の見解の違いを探るのは面白そうだが、私には力量も根気もない。

 2007年春に平野神社(左上下)を訪れたのだが、桜がきれいだった印象しかない。神社が否定しているからか、百済の片鱗すら探すことは出来なかった。

 いずれにしても、平野神社が、松尾大社と伏見稲荷神社とならんで渡来人と関係深い神社だったということにしないと先に進まない。伏見稲荷神社と松尾大社は、秦氏が創建した。伏見稲荷神社も松尾大社も行ったことがあるが、そのときは秦氏が建てた神社とは知らなかった。再訪しようと思っている。

 渡来人の中でも5世紀後半に新羅から集団でやってきた秦氏は、大和政権の発展に大きく貢献した。葛野川(桂川)にダムを造ったことで、、作物に向いていなかった嵯峨野で農業が出来るようになった。こうして、秦氏は桂川流域に大きな勢力を築いた。下は、秦氏の領地でもあった嵯峨野一帯の今の地図である。(「平安京の風景」−文英堂−から借用)


 京福嵐山本線(嵐電)の太秦駅を降りると、もうそこは広隆寺(地図の@)の楼門だ。聖徳太子から仏像を下賜された側近の秦河勝が、それを安置するために建てたのが広隆寺である。秦河勝が飛鳥から離れたここ太秦に寺を建てたのは、彼の出身地だったからだ。聖徳太子から託された仏像が、国宝1号の弥勒菩薩半跏思惟像。広隆寺には修学旅行以来何度も訪れながら、この美しい御仏が、聖徳太子と秦氏に関係あることを知らずに眺めていた。

「太秦」の駅を降りるとそこは広隆寺の楼門。嵐電の車内からも見える。 国宝1号の弥勒菩薩。安置されている霊宝殿は撮影禁止。写真はパンフレットのコピー。 国宝の桂宮院本堂。八角円堂ともいう。春と秋の日祝だけの公開。訪れたときは開いていた。中に聖徳太子が祀られている。

 四条大宮から嵐山に向かう電車の「太秦」のひとつ前の駅が「蚕の社(かいこのやしろ)」である。駅名を聞くたびに、「変わった名前の神社だなあ。養蚕に関係あるのかしら」と思っていた。2008年11月にひとりで嵐電に乗ったときに、思い切って降りてみた。降りると一の鳥居があるが、神社らしきものは見えない。5分ほど歩いて社(地図のA)に着いた。後で地図を見ると広隆寺からも歩いてすぐである。

 蚕ノ社は、秦氏が養蚕と機織り関係の神を祀った神社である。でもこの神社の正式名称は木嶋坐天照御魂神社。天照の名からも想像できるが、秦氏が住み着くずっと前からこの地に祀られていたようだ。秦氏が桂川流域で勢力を伸ばしていくときに、古くからある神を追放せずに、自分たちの信仰を重ねていったといえる。渡来人がうまく日本にとけ込んでいったのは、こんな配慮もあったようだ。

蚕の社本殿紅葉の時期だが誰もいない境内。 手水場も風情がある。 京都の珍鳥居のひとつが本殿西側にある。3方から拝むことが出来る。北は双ヶ岡、西は松尾大社、東は稲荷神社。どれも秦氏ゆかりの地。


 嵯峨野一帯が秦氏に関係深いとは聞いていたが、太秦という地名はあるものの、実態がつかめなかった。私以外に誰もいない蚕の社の境内に立って初めて、養蚕や機織りの技術を伝えた渡来人の思いが伝わってきた。秦氏一族のお墓の蛇塚古墳(地図のB)、葛野大堰と考えられている一の井堰の石碑(地図C)など秦氏に関連ある史跡はまだまだある。

 天皇みずからが、桓武天皇の母は百済系で韓国とのゆかりを感じるとおっしゃっている。そして日本の古代社会発展に寄与した渡来人の功績を思うにつけ、今後の日韓関係がうまくいくことを祈りたい。
(2009年1月8日 記)

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