日本史ウオーキング

 34. 源頼朝と北条政子 (鎌倉時代)

 旧石器・縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安と時代順に歩いてきて、やっと鎌倉時代である。「1192(いい国)作ろう鎌倉幕府」と覚えた人も多いと思う。以前は、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年を、鎌倉時代のはじまりとしていた。

 しかし、頼朝は旗挙げから2ヶ月も経たない1180年10月に、先祖ゆかりの地・鎌倉に入り、武士の棟梁としての地位を固めている。1183年には、東海・東山道の支配権を獲得。1185年には平家を滅ぼし、守護・地頭を全国に設置。今は、1185年を鎌倉時代のはじまりとする学者が多い。

 頼朝の生涯をかいつまんで記してみる。1147年に源義朝の3男として生まれたが、父が平治の乱で敗れたために1160年に伊豆の蛭が小島に流された。20年後の1180年に「旗挙げ」。山木兼隆を破った戦いについては、30平清盛と平氏滅亡その1ですでに書いている。

 旗挙げの数年前に、北条政子と結婚したらしい。その前にも伊東祐親の娘・八重姫に子どもを生ませるなど、流人とはいえ、自由に楽しく生活していたことが分かる。

頼朝政子の腰掛け石 政子が頼朝と結婚する前の北条氏は、伊豆韮山(伊豆の国市)の一豪族にすぎなかった。頼朝の監視役でもあった北条時政は、娘を山木兼隆に嫁がせるつもりだった。ところが、政子は婚礼の席を抜けて頼朝のもとに走ったという。

 よりによって監視している男と娘が、恋仲になってしまった。いっときは立つ瀬のない時政だったが、旗挙げ後はもちろん源氏方についた。後に初代執権にまで上りつめるのだから、何が幸いするかわからない。

 熱海の温泉街の高台に、伊豆山神社がある。そこに2人の腰掛け石(左)が残っている。説明には「この神社の境内で頼朝と政子は恋を語らい、当社で結ばれた」とある。韮山と熱海の間には山があり、簡単にたどりつけない。ここまで来て恋を語るのは不自然だと思うが、伊豆山神社箱根神社と共に、「頼朝の2所詣」として知られる。熱海も箱根もかなりの距離がある。馬を使ったとはいえ、行動範囲の広さに驚く。

北条氏ゆかりの地 日本史の主舞台である関西地方に住んだことがない私は、地名や山の名を聞いても、距離や位置関係がピンとこなくて難儀する。でも、前九年の役・後三年の役や平泉の舞台は、東北で育った私には馴染みがあった。地名や地形を知っていることが、いかに歴史理解に役立つかを実感した。

 その意味で夫の出身地・伊豆の国ウオーキングや、住まいに近い鎌倉ウオーキングは分かりやすい。

 左は、韮山観光のサイトから拝借した地図の一部。韮山駅の西側、伊豆箱根鉄道と狩野川にはさまれた地に、北条氏ゆかりの地がかたまっている。2008年3月、蛭が小島や旗挙げの地(韮山駅の東側)を訪ねた日の午後に、歩いてきた。

  政子が産湯を使った井戸(@)水を飲むと安産になると言われ、ごく最近まで使っていたらしい。

 北条氏は、時政の祖父の頃から鎌倉のはじめまで韮山を本拠地としていた。邸跡(A)の発掘調査で池や溝の跡が見つかったというが、私たちが訪れたときは、遺跡は覆われて広場になっていた。

 願成就院(B)は、頼朝の奥州攻めの戦勝を祈願した寺。北条時政が建立してから北条氏の氏寺になった。中には北条時政の墓がある。

政子産湯の井戸 北条氏邸跡 願成就院
政子産湯の井戸 北条氏邸跡 奥州攻め戦勝を祈願した寺

 執権時代の北条氏については別の項で述べるとして、頼朝に戻したい。1180年8月17日の山木攻めは勝利で飾ったが、23日の石橋山の戦いでは、平家方の大庭景親に敗れた。私は何度も石橋山(小田原市)麓の道路を車で通っているが、1度も寄ったことがない。結果的には頼朝にとって唯一の負け戦になった地だから、見てみたいものだ。

 石橋山で負けた頼朝が山中の祠に身を隠していた時に、梶原景時が見逃してくれて助かった。のちに景時は頼朝の御家人になる。頼みにしていた三浦氏も衣笠城の戦いで畠山重忠に敗れ、安房(千葉の房総半島)に逃亡。頼朝も8月26日に、真鶴港を出て船で安房に逃亡。

 三浦義明・北条時政・和田義盛・安達盛長など、もともと頼朝についていた武将に加え、安房豪族の安西氏・千葉氏・上総氏も頼朝に従軍。平家方だった畠山重忠・新田義重・河越重頼・梶原景時も頼朝の元に馳せ参じた。10月7日に彼ら大軍を従えて陸路で鎌倉入り。8月17日の旗挙げから2ヶ月も経たずに、武士の棟梁としての地位を得たことになる。

 こうなると源氏も平氏もない。力がありそうな棟梁に寝返るなどは、当たり前のことだったのだろう。武士の忠義心は後世言われるほど大きくなかったような気がする。自民党から民主党に鞍替えするようなものだ。

仁右衛門島の島主夫妻と 千葉県の鴨川市太海浜の目の前に、仁右衛門島という面白い名前の島がある。3000uと小さいながらも、景色の美しさと頼朝や日蓮の伝説でも知られる。

 頼朝が安房に逃れたときに立ち寄ったのがこの島。身を隠した洞窟も残っている。頼朝一行をかくまった漁民が、のちにこの島の所有を認められ、代々の島主が住んでいる。

 2002年に、島主の平野仁右衛門さんご夫妻(左写真の中央)に会ったことがある。奥さまと女学校で同級生だったKさんが案内してくれたのだ。個人所有の島に行くだけでも嬉しいのに、島主の歓待まで受けた。しかも頼朝ゆかりの島である。7年前の訪問が頼朝ウオーキングで役に立つとは思いも寄らなかった。

 鎌倉に入った直後の10月20日に、富士川の戦いが行われた。富士川の西に平家、東に源氏が陣取ったが、水鳥の羽音に驚いた平維盛軍が戦わずして逃げ帰ったという逸話で知られる。

頼朝と義経の対面石 翌10月21日、黄瀬川の陣にいた頼朝のもとへ弟の義経が現れ、兄弟が対面した。静岡県駿東郡清水町の八幡神社境内に、対面石(左)が残っている。夫の実家に行ったときに寄ってきた。

 清水町は三島と沼津の中間にあり、富士川とは少し距離がある。戦いの陣地はこのように少し離れたところに置くものなのか。素朴な疑問が浮かぶのも、地理が分かっていればこそだ。頼朝と政子の腰掛け石といい、頼朝と義経の対面石といい、ほんとうの筈がないなあと疑いつつ、探し回って写真に撮るおかしな私がいる。

 黄瀬川で対面後、木曽義仲や平家を追討した義経の活躍は、32平清盛と平家の滅亡2で書いた。

 1185年3月24日に平家を滅亡させた義経は、5月15日に鎌倉近くに帰参。しかし、鎌倉に入ることすら許されず、頼朝に会うことも出来なかった。兄の冷たい仕打ちに対し、自分には野望などまったくないと、切々と訴えたのが世に名高い腰越状である。頼朝は腰越状に心を動かすこともなく、6月9日、義経は兄に会えぬまま腰越を去り京都へ帰った。

 腰越状を書いたとされる所が、鎌倉市腰越にある満福寺だ。満福寺は、江ノ電腰越駅の真ん前高台に建っている。2008年5月の鎌倉ウオーキングで訪れた。境内には弁慶の腰掛け石、手玉石があり、弁慶の人気の程がうかがえる。この項だけで、3つの腰掛け石をお目にかけることになった。

 本堂内部には、腰越状の写しや版木が展示されている。ふすまには、腰越状を書いている姿、吉野山の逃避行、弁慶の立ち往生など鎌倉彫を使った漆絵で現されている。

満福寺の弁慶の腰掛け石 満福寺の腰越状 ふすま絵
境内にある弁慶の腰掛け石 腰越状の写し 鎌倉彫を使ったふすま絵。腰越状を書いている義経。

                                                   (2009年11月9日 記)
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