日本史ウオーキング
  35. 源頼朝の都づくり (鎌倉時代)

頼朝の銅像 鎌倉幕府を開いた源頼朝(左は鎌倉源氏山にある像)の知名度が高いので、鎌倉時代はずっと源氏の時代だと思われがちだが、源氏はわずか3代で滅びた。将軍についたのは、父と息子2人だったので、父子2代だと言う人もいる。

 1199年に頼朝は落馬による怪我がもとで亡くなった。武士の棟梁ともあろうものが、大怪我をするほどの落馬も妙な話だけに、死因は諸説ある。

 2代将軍の頼家は、1204年に修善寺で暗殺された。頼家の後をついだ弟の3代将軍実朝も、1219年に頼家の息子の公暁に暗殺され、源氏の血筋は途絶えた。頼朝が実権をにぎった1180年から40年足らずの源氏政権だった。頼家と実朝は北条氏にあやつられていたので、源氏は頼朝の時代だけだったとも言える。

 鎌倉は私が住んでいる横浜に隣接しているので、日本史ウオーキングに限らず訪れる機会は多い。しつこくなるので訪問日は省く。

 鎌倉に幕府を開いたのは、鎌倉の地形が海と3方の山に囲まれた要塞の地だった、海に面しているので交通の要所だった、源頼義(32 前九年後三年の役参照)以来、源氏ゆかりの地だったことがあげられる。

寿福寺 1180年10月6日、大軍を従えて鎌倉入りした頼朝は、まず父・義朝の邸跡を訪れて、源氏の統率者になった報告をしたという。この時はまだ平家を滅ぼしていないが、いずれ自分が天下を取る自信はあったと思う。 

 義朝は、京都と鎌倉の間を頻繁に行き来していたので鎌倉にも邸を持っていた。頼朝には義経・範頼以外にも異母兄弟がいたが、義朝が京と鎌倉の間を往復している時に出来た子どもだそうだ。

 義朝邸があった場所に、今は寿福寺(左)が立っている。頼朝が亡くなったあとの1200年に、北条政子が栄西を招いて開山した寺。鎌倉五山の3位と格式が高い寺である。栄西は、臨済宗をもたらした中国の高僧で、「喫茶養生記」でお茶を飲む習慣を伝えてことでも知られる。

 寿福寺の仏殿などは拝観できないが、外門から山門までの参道を歩くだけでも、静謐な気分になる。裏手のやぐら(中世の横穴墳墓)にある北条政子と源実朝の墓は、自由に参観できる。寿福寺は、扇が谷1丁目にあり、鎌倉駅から歩いて10分と近い。

元八幡 源氏ゆかりの神社・八幡宮にも、鎌倉入りの翌7日に参拝している。八幡宮は先祖の源頼義が、1063年に石清水八幡宮を勧請して由比ヶ浜に近い今の材木座1丁目に建立。今は元八幡(左)と言われるが、元だけあり、めったに訪れる人もいないようだ。だれにも会わなかった。

 頼朝はそれから間もない12日に、浜の八幡宮から山の小林郷に移すことを命じた。小林郷は、今の鶴岡八幡宮が建っているところ。頼朝は、京の内裏を八幡宮に、朱雀大路を若宮大路に見立てた都づくりの構想を持っていた。それには、元八幡の地は、ふさわしくなかった。

 八幡宮(下の地図の@)は源氏の氏寺として建てたが、源氏が3代で滅んだあとも、幕府鎮護の寺として扱われた。今は神社だが、明治の神仏分離令以前は神主と僧侶がいる神宮寺だった。八幡宮の裏手には「25坊あと」の石碑が建っている。

 1191年に鎌倉に大火があり、八幡宮も焼けてしまった。しかしすぐに、以前に勝る社殿が完成。山の中腹に本宮(上宮)、平地に若宮(下宮)と分けて再建したのはこの時である。もっとも今見る建物のほとんどは、当時のものではない。

舞殿と本宮 由比若宮遙拝所 式内社

「舞殿」から、本宮と階段を見た写真。
義経の愛妾だった静御前は、鎌倉に護送された。頼朝に強いられて八幡宮の回廊で舞を舞ったことはよく知られる。もっともこの舞殿は、関東大震災後の再建。


舞殿の右わきに、若宮が建っている。その前に、「由比若宮遙拝所」がある。当時は由比の若宮も見えて遙拝できたのだろうが、今は樹木が邪魔をして、まったく見えない。

大銀杏に身を隠していた公暁が、実朝を殺した。その銀杏を左に見て、階段を上りつめると、本宮がある。そこをお詣りする人は多いが、奥まで足を運ぶ人は少ない。この写真は奥にある社殿のひとつ式内社。



二の鳥居と段葛 朱雀大路に見立てた若宮大路(下の地図のA)は、1182年に政子が妊娠したので、跡継ぎ誕生と安産を願い作られた。鶴岡八幡宮の入り口・三の鳥居から、由比ヶ浜海岸まで延びるまっすぐの道をいう。

 頼朝みずから工事を指図したこともあり、御家人たちも土や石を運び作業に加わった。若宮大路の中央に段(壇)を築いて縁石をかねた葛石を並べたので、この道を段葛と呼んでいる。今は二の鳥居(左)から三の鳥居までが、段葛である。桜が満開のときはラッシュ並の混雑。

 若宮大路の発掘調査で、左右の側溝が見つかった。それによると、道路の幅が33.6bもあった。この幅を聞いただけで、八幡宮と若宮大路を都の中心にしようとした意気込みが伝わってくる。

都づくり地図 左は、頼朝の都づくりの位置関係がよく分かる地図なので拝借した。(「中世都市鎌倉を歩く」松尾剛次著−中公新書−)。赤い数字は書き加えた。

 住まいと政治の場を兼ねた大倉御所(地図B)は、1180年に、当時のメインストリートの六浦道(地図のC)に沿って作られた。六浦道は、六浦(横浜市金沢区)港に通じていた道で、今の金沢街道とほぼ同じ。頼朝のころには、六浦が唯一の港だった。

 今、清泉小学校が建っているところが大倉御所の跡地である。吾妻鏡によれば、住まいは貴族風の寝殿造り。武士の住まいが寝殿造りというのは妙な感じもするが、子ども時代を京都で過ごした頼朝にとっては、自然のなりゆきだったのかもしれない。

 御所の東御門跡、西御門跡の石碑も建っている。西御門は地名にも残っている。御所の南には畠山氏、東には比企氏、西には三浦氏と、有力御家人が御所の近くに邸を構えていた。

 大倉御所の様子を想像するのは難しいが、石碑のおかげで、いくらかイメージをふくらませることはできる。史跡の石碑は、大正時代に鎌倉青年団によって作られたもの。旧字で右から書いているので少し読みにくいが、古都にふさわしい趣をそえている。

大倉幕府あと 西御門 東御門 畠山重忠邸あと
大倉幕府あと 西門あと 東門あと 畠山重忠邸あと

 頼朝建立の寺院は、八幡宮以外に、勝長寿院(地図のD)と永福寺(地図のE)がある。勝長寿院は1185年に、父義朝を弔うために建てた。大御堂とか南御堂とも呼ばれていたように、御所の南にある。

 永福寺(ようふくじ)は、1189年に、義経や藤原泰衡など奥州合戦で犠牲になった数万の霊を弔うために建立。当時は目的達成のために親兄弟を殺すことなどは、珍しいことではなかった。良心の呵責など感じないかと思ったが、こうして立派な寺を建てているところをみると、そうでもないらしい。

 頼朝が平泉の寺社や町並みに感心して鎌倉の町づくりに反映させたという話を、平泉で聞いた。なかでもこの二階大堂の永福寺は、平泉の二階大堂の大長寿院を模したという。このあたりの地名は二階堂。大寺は跡形もないが、地名として残っている。最近亡くなった日本画家・平山郁夫氏の住まいも二階堂である。私は裏口から出ていらした平山さんにお会いしたことがある。「こんにちは」と言ったら、きちんと答えてくださった。

 最近の発掘で二階大堂・阿弥陀堂・薬師堂が廊下でつながっている大伽藍だったことがわかった。今はススキが生い茂る空き地になっているが、鎌倉の良い所は、こうして史跡を残そうという姿勢が見えることだ。

永福寺あと 永福寺発掘図 ススキが茂る永福寺あと
永福寺の石碑 説明板に載っていた発掘図 ススキが茂る空き地になっている。

 頼朝が念持仏を祀って祈るために建てたのが法華堂(地図のF)である。こうしてみると、大倉御所は北の法華堂、東の永福寺、南の勝長寿院、西の八幡宮寺に守られていることがわかる。

 彼の死後、ここに葬られたので、鎌倉武士には法華堂が心のよりどころになっていた。今は法華堂あとに白旗神社が建っていて、急な石段を上ると頼朝の墓がある。江戸時代に島津氏が建てた塔だ。もし興味のある人は、頼朝の墓の上の道を草をかきわけながら登っていくといい。やぐらの中に島津忠久や大江広元の墓がある。私たちが訪れたときは、墓を研究している人がいて熱弁をふるってくれたが、内容は忘れてしまった。

法華堂あと 頼朝の墓 大江広元の墓
法華堂あとの石碑 白旗神社にある頼朝の墓 幕府の政所の初代別当をつとめ、頼朝の死後も政策に関与した大江広元の墓

 今回は、何度にもわたるウオーキングによるもので、観光客があまり訪れていない場所もあるが、これぞ史跡と言えるものだった。(2009年12月9日 記)

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