日本史ウオーキング
  
  45. 最初の戦国大名 北条早雲 (戦国時代)


 戦国時代の始まりと終わりを、いつにするか。享徳3(1454)年の享徳の乱から、元和元(1615)年の大阪夏の陣までの約150年とする説がある。享徳の乱は、鎌倉公方の足利成氏が、関東管領の上杉憲忠を暗殺したことにはじまる。足利と上杉の戦いは、足利公方が鎌倉を追われる結果に終わった。

 足利成氏は、今の茨城県の古河(JR宇都宮線古河駅)に逃亡し、「古河公方」と名乗る。古河公方の館跡を写真では見ているが、まだ行ったことがない。土塁や堀も残っているそうだ。

北条早雲像  ほとんどの教科書は、応仁の乱の終結(1477年)から室町幕府滅亡(1573年)までの約100年を戦国時代としている。でもこの区分にすると、室町幕府滅亡後の、三方原の戦い・小谷城の戦い・長篠の戦い・本能寺の変・備中高松城の戦い・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦い・小田原合戦・関ヶ原の戦いなど、映画やテレビでおなじみの戦いは戦国時代からはずれてしまう。

 「日本史ウオーキング」は、歩き回った史跡の感想を書いているに過ぎない。固いことは考えずに、天下取りに関連あったと思われる史跡めぐりを記していくつもりだ。

 最初の戦国大名と言われるのは、伊勢新九郎盛時。北条早雲の名で知られているが、伊勢氏が北条と改名したのは、2代目氏綱のときで、早雲が存命中に、北条早雲と名乗ったことは一度もないらしい。左写真は、小田原駅前にある北条早雲像(サムライ銅像研究会さん提供)。

 北条早雲が拠点にしたのは、伊豆の韮山(今の伊豆の国市)。地理的にも鎌倉時代の執権北条氏の子孫だと思ってしまうが、まったく関係ない。伊豆を領有するにあたり、北条を名乗ったほうが好都合と考えたらしい。名門の名に弱い庶民の心理をよく突いていると思う。鎌倉時代の北条と区別するために、後北条とか小田原北条と言うことが多い。

堀越御所跡 享徳の乱で、鎌倉公方は、古河に追いやられてしまった。足利義政が新しく鎌倉公方に命じた弟の政知は、鎌倉に入ることができず、伊豆に留まざるをえなかった。それが「堀越公方」である。政知の子茶々丸の時、1493年に北条早雲に攻め込まれ、33年間続いた伊豆の御所は滅びた。

 数年前に、鎌倉時代北条氏の史跡めぐりで、韮山駅周辺を歩いた。政子が産湯を使った井戸のすぐ近くに、堀越御所跡もあった。(日本史ウオーキング「源頼朝と北条政子」の地図参照)

 芝生広場になっているが、「伝堀越御所跡」(左)の案内板が建っている。当時の池の跡や陶磁器類が発掘されたというから、「伝」の字をつけなくてもいいと思う。

 夫の実家は、ここから近いが、井戸も御所跡も知らないという。夫が住んでいた約50年前には、説明の立札もなかったらしい。

韮山城址からの富士山 早雲は、5年の歳月をかけて伊豆を平定し韮山城を拠点とした。その間、今川氏の武将としても活躍。早雲と今川氏親は協力し合いながら、領土を拡大していった。

 ちなみに、韮山城の一部は、韮山高校の敷地内にある。左写真は韮山城跡から見た富士山。数年前に訪れたときに、韮山城や早雲の館跡がこの辺りにあったことを聞いた。

 これについても夫は初耳だという。この高校に3年間通い、日本史の授業も受けたのに初耳とは驚きだ。ここも、50年前は、発掘されていなかったのかもしれない。