イエメンの旅4
 サナアから東部のサユーンへ

2009年2月25日(水)-4日目

 首都サナア近郊めぐりの2番目の地はシバームイエメンの旅2の地図参照)。イエメンにはシバームと名がつく町が4ヵ所ある。後に訪れるシバームは世界遺産だが、ここのシバームとコーカバンも由緒ある古い町だ。

 シバームとコーカバンは同じヒムヤール族の町で双子都市と言われる。標高2500㍍のシバームは商業や農業を、標高2850㍍のコーカバンは軍事や宗教を担って、役割分担をしていたからだ。

シバーム コーカバン スーラ
標高2500㍍のシバーム 標高2850㍍のコーカバン 標高2700㍍のスーラ

 昼食後もうひとつの双子都市コーカバンへ。シバームとコーカバンは急斜面の細い道で繋がっていたが、今はドイツが作ってくれた舗装道路が通じている。イエメンには外国の援助で作られた道路が他にもある。

 4WD車の車窓から見るコーカバンは、岩場の先端に堅固な建物があり敵からの防御には最適だ。以前は1000棟もあった家が、今は180棟ほど。軍事の役目を終えたコーカバンからシバームに住み替える人が増えているのは当然だろう。

 ここコーカバンで日本の若者に出会った、麓から歩いてきたという。よくもこんな所まで1人でやってくるものだと感心してしまった。ひとりの行動は過激派の餌食になりやすいのではないだろうか。無事を祈らずにはいられない。

かわいい子ども達

次は標高2700㍍のスーラへ。9世紀にイマーム・アルハディールが建設した山岳の町。イエメンがオスマントルコの支配下にあった時も、オスマントルコの支配を退けた。

 ダビデの星がついたユダヤ人の家も残っている。ユダヤ人はイスラエル建国時に移住してきたが、大工仕事や銀細工などユダヤ人の技術が受け継がれている。 

今日は高地に築かれた城塞の町をたくさん見学した。それだけ部族同士の争いが多かったのだろう。イエメンの良さはなんだろうと考えたときに真っ先に思い出すのが、こうした城塞都市の路地をひっそり歩く人、無邪気に遊ぶ子供達(左)の歓声、山羊やロバがわが物顔に歩いている姿だ。  <サナアのタージシバホテル泊>

2月26日(木)-5日目

3泊したサナアを離れ、イエメン東部のハドラマウト地方へ飛行機で移動。定刻に飛ばない、飛行場が急に閉鎖されることもあると聞いていたが、むしろ早めにサユーンに着いた。

7時52分(サナア発)→イエメン航空で8時45分(サユーン着

サユーンの空港には、すでに4WD車が待っていたが、サナアとは違うドライバーである。サナアでもサユーンでも、ドライバー所有の車は全部トヨタのランドクルーザーだった。トヨタ以外の日本の車もたくさん走っていた。ほとんどの車は日本製ではないかと思う。

 中には日本の××商店などの漢字そのままの車も走っている。でも日本とは違い左ハンドルだ。右ハンドルを左ハンドルに改造するには膨大な費用がかかるという。日本文字のある中古車がなぜ左ハンドルなのか、不思議でならない。

王宮から市街

 地図で見ると、ハドラマウト地方はイエメンの東部だが、イエメンが南北に分かれていた頃は、南イエメンに属していた。南イエメンは1967年にイギリスから独立、1969年に社会主義の国イエメン民主人民共和国が発足。1990年に南北が統一するまでこの辺りは、20年以上も社会主義の国だったのだ。

 サユーンイエメンの旅2の地図参照)はワディ・ハドラマウト地方の中心都市で、480万本ものヤシの木が生えているそうだ。ワディ・ハドラマウトはアラビア半島最大の渓谷で、20万人以上がここに暮らしている。雨が降ると緑のベルト地帯になるというが、雨期でない今は埃っぽい。

 まず白亜の旧王宮(左は王宮から市内を撮った)に行った。1962年までこの地を支配していたアルカジーリ朝スルタンの宮殿。面積は5460㎢もあり、41の大部屋、55の小部屋、23のトイレ、240の窓、183のドア、157の階段があったというが、今はその面影はなく、一部が博物館になっている。

 1階には旧石器・古代アラビアのアルファベット・モスクのミンバルなどが展示してあった。2階には織機・銃・乳香用の香炉など。博物館と言っても、目を引くようなものはない。イエメンの文化がこの程度なのか、まだ整理されていないのか。

 きのうまでは標高が高く涼しい所にいたが、サユーンに来たとたん、真夏の太陽が容赦なく降り注ぐ。スークで、シャーミーさんがレモンジュースをご馳走してくれた。本物のレモンを目の前で絞っているジュースで元気を取り戻した。

蜂蜜

 添乗員さんが「サユーンに行ったら、美味しい蜂蜜が買えますよ」とサナアにいた頃から話していたので、楽しみにしていた。各地の蜂蜜を収集して食べ比べている知人がいるので、お土産にしようと思ったからだ。蜂蜜はこの地方の特産で今はサウジなどに輸出している。

 楽しみにしていた蜂蜜だが、他の国とは様子が違う。大きなプラ容器(左)から小さなプラ容器に移し替えてくれるのだが、蓋がきちんとしたパッキングではない。案の定、日本に着いたときは蓋から蜜がしみ出ていた。最高級のアカシヤからの蜜だと言うが、私には半分ぐらいの値段の蜂蜜との味の違いがわからなかった。

 ところで蜂蜜産業発展は、オサマ・ビン・ラディンの祖父の力によるところが大きいそうだ。このあたりはラディン一家の出身地で、サウジアラビアで金持ちになった一家が、イエメンの人たちが商業的に成功するように手助けした。

 そのためかどうか、アルカイダの拠点はイエメンにあると疑われている。イエメン政府にしてもこんな噂が立つようでは観光面でも困るし、アメリカと共に必死に探しているという話だ。でもイエメン人のほとんどは、アメリカが大嫌い。もしアルカイダを見つけても、彼らを差し出すことはしないだろう。

 シャーミーさんやドライバーのムハンマド君と個人的に話したときに、ふたりともアメリカ特にブッシュについて「don’t like」ではなく「hate」という表現を使っていた。

 蜂蜜以外に、岩塩2㌔とゴマのお菓子をたくさん買った。ゴマ菓子は添乗員さんお勧めで試食したときは美味しかったが、家に買って食べると胸につかえる。自分が嫌なものは他人にあげられないので山積みになって残っている。

 サユーンには大人の女性の乞食がたくさんいた。黒衣から手だけがぬっと目の前に出てくると、一瞬ドキッ!「お金が欲しいんなら、せめて顔のベールぐらい取ってよ~」と、ツアー仲間と言い合った。
                                             (2010年11月16日 記)


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