イエメンの旅6
 南イエメンの首都だったアデンへ

2009年2月28日(土)−7日目

日干しレンガ作り今日はサユーン近郊のタリムを訪れたあと、アデンまで飛行機で移動する。

タリムに向かう途中、日干しレンガ作り(左)を見学した。日干しレンガは何千年も前の遺跡でよく見るが、崩れてしまっていることが多い。

 こんなもろい素材を、この国では今も使っている。泥と麦わらを混ぜたものを木枠に入れ、3〜4日間干すだけで、焼いたりしない。

 「日本の土壁も米わらと泥をまぜていたわねえ」とSちゃんと話していたら、添乗員さんは「そんな土壁あったのですか」とびっくりしていた。土壁を知らないなんて、若いんだなあ。

タリムイエメンの旅2の地図参照)は、スンニ派の中心地として12世紀から栄えた。遠くからでもミナレットがたくさん見え、「宗教の町」を実感する。人口は3万人なのに360もモスクがあるという。

アラビア半島でいちばんきれいなミナレット 特に最古のアルムフダールモスクの43bのミナレット(左)は真っ白い四角の塔で、遠くからでもすぐわかる。アラビア半島でもっとも美しいと説明された。サウジアラビアのメッカはイスラム教のもっとも大事な聖地だ。もっときれいなミナレットがありそうな気もするが、行ってないから分からない。

アルカーフ宮殿を見学した。茶色い外観の落ち着いた宮殿だ。タリム出身でシンガポールに移住して財をなしたアルカーフ一族の邸だった。社会主義時代に没収され、いっときはベドウィンが住んでいたので荒れ放題。今は博物館になっている。

 アルカーフ一族はイエメンに初めて車や電話をもたらした貿易商だ。貿易商の邸をなぜ宮殿と呼ぶのかわからないが、豪華であったろうことは、片鱗から想像できる。博物館とは名ばかりで、アルカーフ一族だという男性が乳香など売っていた。

次は図書館を見学。約6200冊の手書きの本がある。たくさんの宗教家がこの町で学んだことが実感できる図書館だ。

ホテルで昼食後、空港に向かった。サユーン発(15時20分)→イエメン航空でサナア着(16時15分)。サナア発(19時30分)→イエメン航空でアデン着(20時10分)

 イエメンの南部、アデン湾に面するアデンイエメンの旅2の地図参照)に到着した。夜だというのに蒸し暑い。ここのホテルには、空港の荷物検査と同じような装置があり、荷物とボディチェックがあった。アデンは、海賊が出没することで名高いソマリア沖に近い。このホテルも海岸に建っている。用心に越したことはない。

 イエメンの時刻以外に世界の4都市の時刻を示す時計があった。4都市には、ロンドン・ニューヨーク・シドニーと並んで東京が入っていた。

このホテルではアルコールを飲むことができる。今までは、添乗員さんが「お子様ビール」と名付けたノンアルコールビールしか出なかった。夫はイランでまずいノンアルコールビールを飲んでからというもの、ノンアルコールビールを敬遠している。だからといって、馬鹿高い本物ビールを飲む必要もないので今晩もビールなし。     <アデンのシェラトン・ゴールドモハル・アデン泊>

3月1日(日)−8日目

象の鼻に似た岩

 ホテルのプライベートビーチを散歩した。今回の旅で初めての海だ。象の鼻の形をした岩に囲まれたビーチ(左)は、波も穏やかだ。

 アデンは、海のシルクロード時代から交易の中心地だった。バスコダガマが喜望峰を発見したことで、交易都市としては衰退するが、今も重要な港に変わりはない。

 エジプトやヨーロッパに侵略され、1837年にはイギリス領になった。アデンは、インドとスエズ運河を結ぶ航路にあたっているので、イギリスはどうしても欲しい港だった。イギリスから独立後、アラブ初の社会主義国・南イエメンの首都になった。

統一後に首都をサナアに譲ったが、イエメン第2の都市。経済の中心を担う近代都市である。ここに来て初めて、コンクリートビルを目にした。

今日から帰国までの4WD車は、サナア滞在中の時と同じ運転手仲間。今日の同乗者は、ガイドのシャーミーさん。イエメンについて質問が出来る絶好の機会だ。日本語が堪能でないのは残念だが、車に乗っている間に、イエメンの日常について英語でいくつか質問した。手振り身振りを交え、誠実に答えてくれた姿が忘れられない。

まずアデン港に行った。岸壁に出るにはパスポートが必要と言われたが、実際には名簿提出だけですんだ。「軍港なので軍の施設にはカメラを向けないで」と注意されるが、どこが軍の施設なのか軍艦と民間の船の区別もつかない。この沖に海賊が出ると聞けば緊張せねばなるまいが、まさかここまで上陸することはないだろう。

リトルベン ロンドンのビッグベンと同じような形の時計塔が見えた。イギリスに支配されていた頃の名残。リトルベン(左)と呼ばれている。日本の水産会社のビジネスマンに会ったのもここである。アデンに住んでいるという話だ。アラビア海から獲れるマグロをツナ缶に加工している。

次は町中にあるランボーハウスに行った。ランボーに憧れる若者のための簡易ホテルになっている。フランスの詩人ランボーは15歳から19歳にかけて早熟の詩人と呼ばれた。そのランボーが詩作をやめた後に世界を放浪。36歳でガンに冒されてここで亡くなった。エチオピアの女性と暮らしていた部屋が106号室だ。

次は15世紀に作られたアイダルースモスクへ。アイダルースは、巡礼をしながらスンニ派を広めたアデン出身の聖人。その一族の霊廟とモスクがある。モスクは入り口から中を見たが、天井や壁にはイスラム独特の幾何学模様や花が描かれ、作られた頃の豪華さがしのばれる。モスクは入り口までなのに霊廟には入れた。棺を覆っている布をシャーミーさんが上にもちあげてくれた。中をのぞいたが空洞だった。モスクさえ外観しか見学を許さないのに、あえて棺を見せなくてもいいのにと思うが、ガイドのサービス精神かもしれない。なんでも禁止では、ガイドの立場になればつらいのだろう。

アデンを離れてしばらく走った道路沿いに砂丘があった。風紋がこんなにきれいに出ている砂丘を初めて見た。イエメンの砂漠は岩漠でゴツゴツしているので、サラサラ砂漠は珍しい。

昼食後、アルフェミール村に立ち寄った。この辺りが火山地帯だったために、温泉がわいている。現地の人がプールのような温泉に入って楽しんでいた。仲間のほとんどが温泉に足を入れてイエメンの温泉を体験していたが、相当熱いとみえて低温やけどのようになった人もいた。私は靴を脱ぐのが面倒なので、足湯はパス。

ランボーハウス サラサラ砂漠 イエメンの温泉
ランボーの写真をかかげるランボーハウスのスタッフ。 イエメンには珍しいサラサラ砂漠。きれいな風紋だった。 イエメンの温泉で足湯。低温火傷をした人もいた。

しばらく走り、変哲もなさそうなところでバスが止まった。北イエメンと南イエメンに分かれていた頃の国境の跡だ。ここ以外に3ヵ所の国境があったという。今は朽ちた小屋が残っているだけだ。

シャーミーさんに「今でも南北でトラブルはあるの?」と聞いてみた。「いやまったくありませんよ」と言う。でも統一後も内戦があった。なんのわだかまりがないなど考えられないが、シャーミーさんには、イエメンの暗部を言わないようなところがある。

 「ある資料には小学校の就学率は50%と載っているけど」と言ったら「とんでもない。今はどんな小さな村にも学校がある。100%が学校に行ってますよ」。たしかに小さな村でも通学している子供達に出会った。昼間から遊んでいる子も大勢いるが、2部授業のためだ。午前の部は8時から13時まで。午後は13時から17時まで。少なくとも子供が働かされている姿は見なかった。就学率に関しては100%とはいかないまでもシャーミーさんが言うのが正しいような気もする。いずれにしても統計などとっていない国だから、正確な数字は出ないのだ。

シャーミーさんの口ぶりからは、イエメンのすべてを容認しているように感じられる。本心なのかわからないが、彼の誠実な様子からはあえて隠しているようには思えない。「イエメンの女性は、黒衣を着なければならないことに抵抗しないの」と聞いた時も「黒衣は義務ではありません。でもわが家の娘達は黒衣を着ることに誇りを持っています」という答えだった。  (2010年12月16日 記)

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