イエメンの旅8
 コーヒーの積み出し港だったモカ

2009年3月2日(月)−9日目

 タイズ郊外のジブライエメンの旅2の地図参照)に着いた。ジブラは11世紀にアルワという女王が治めた町だが、日干しレンガではなく石造りの家が多い。アルワ女王の墓があるモスクは気品がある。白地に茶色の模様がついたミナレットも美しい。

ジブラは石造りの家が多い アルワ女王の棺があるモスク 黒衣の女性


  昼食後にイッブに行った。高地にある城塞都市をこれまでに何ヵ所見たが、ここも1850bにある。雨期の6月〜9月には降水量が1500oにも達するだけあり、緑が豊かだ。段々畑では穀類・コーヒー・カートを栽培している。

ここの建築も日干しレンガではなく石造りだ。窓から子供が手を振って歓迎してくれる。学校帰りの子供達も教科書を見せてくれるなど人なつこい。狭い路地に密集しているスークも面白い。カート専門のスーク・床屋・パンを焼いている食堂街。添乗員さんが焼きたての大きなパンを買ってくれた。パンをちぎる手があちこちから伸びた。食事を終えたばかりだが、このおいしいパンは別腹。

学校から帰る子ども達 教科書を見せてくれた女の子 窓から眺めている男の子

4時頃にタイズのホテルに戻り、希望者はホテルから5分の所にあるスークに行くことになった。おなじみのジャンビア・黒衣・その下に着る派手派手の衣装・男性用の胴衣などが軒を連ねている。天ぷらをあげている店で「おいしそうだな」と涎をたらしていたら、あげたてをヒョイと手渡してくれた。男達はみな大らかだ。

 香辛料はじめ果物野菜チーズなど食料品が山積み。食糧自給率は70%で、肉や魚や生鮮食料品は自分の国で充分なのだ。輸入しているのは、オーストラリアやアメリから小麦、インドやバングラデシュから米、インドから香辛料。

 夕食には添乗員が持参した素麺とキュウリの浅漬けが出た。スークで買ったキュウリを日本から持ってきた「浅漬けの素」で漬けたという。手早さに驚いてしまった。 <タイズのタージシャムサンホテル泊>

3月3日(火)-10日目

今日は、紅海沿岸のティハマ地方を走りボディダまで行く。平野ばかりのティハマは、山岳地帯が多い他の地域とは趣が違う。イエメン全人口の3分の1がティハマ地方に住み、全農業の2分の1を生産している。

1時間ぐらい走ったころ、黒い煙が見えてきた。大勢の労働者が真っ黒になって炭を焼いていた(左)。日本のナラのように太い木ではなく、細いニセアカシヤの木を使っている。大規模にやっているところをみると、ガスを引いていない家が多いようだ。

 10時ころにモカ(イエメンの旅2の地図参照)に着いた。ほとんどの日本人は、イエメンを知らなくても、コーヒーのモカの名前は知っている。16〜17世紀ころ世界最大のコーヒーの積み出し港だった。モカはコーヒーの代名詞のように使われ、コーヒー味のケーキやアイスクリームがモカと呼ばれるほどだ。

 しかし、今のモカは廃墟だった。かつてのコーヒー御殿が崩れかけたままの姿で残っている。港の石垣も崩れ落ちている。2万人が住んでいることが信じられないような寂しさが漂う町だ。

 廃墟を通り過ぎで見た海は、「あ!」と声をあげるほどきれいなエメラルドグリーンだった。私が紅海を見るのはヨルダンのアカバ、イスラエルのエイラートに次いで3度目だがいつ見ても紅海は澄んでいて青が際だつ。

かつての豪華さが偲ばれるコーヒー御殿。今は廃墟だ。 エメラルドグリーンの紅海はいつ見てもきれだ。 拳銃をしているおまわりさん。呑気そうにケータイを見ている。

 海岸に、ジャンビアではなく本物の銃を腰にさした警官がいた。布を腰に巻いていて足下は草履というスタイル。しかもケータイの画面を見ている。緊急連絡なら耳にあてている筈だから、画面を見ているのは私用に違いない。カメラを向けてもNOの仕草をしない。暢気なおまわりさんだこと。

 アラビア半島には世界遺産は少なく、イエメンに3つ、オマーンに5つ、バーレーンに1つあるだけだ。3つあるイエメンの1つが昼食後に行ったザビードイエメンの旅2の地図参照)だ。

ザビードは、9世紀にムハンマド・イラン・ジャードがジャード王朝を開いたのにはじまる。最盛期の13〜15世紀には神学校やモスクが232もあったという。1993年に世界遺産になったが、保存体制がきちんとしていないために、2000年に危機遺産リストに載った。今のイエメンの経済力や文化度では、文化遺産をきちんと守っていく総合力が足りないのだと思う。

ザビードの町も廃墟に等しくゴミやビニール袋が風に舞っている。危機遺産に指定されても仕方がないところだ。200年以上になるというお宅を訪問してチャイをご馳走になったが、さほど心に残らない町だった。

次に立ち寄ったのはフセイニア村。2頭の目隠しをしたラクダが木臼のまわりをぐるぐるまわって、ゴマをつぶしている。つぶした時に出る液体がゴマ油だ。2時間ごとに休憩するので、2頭のラクダが坐ってスタンバイしていた。

 監督のオジチャンは「もっと歩け」と鞭を入れる。ミャンマーで牛がピーナツ油をつぶしている似たような光景を見たことがある。日本では機械を使って搾り取っているだろうが、江戸時代はこんなことをしていたのだろうか。それとも農村では昭和初期までやっていたのだろうか。

次に見学したのは、ティハマ織りの工房。紅海沿岸のティハマ地方で作られる手織りのことをティハマ織りという。織物をやっているのは男2人。太い横棒を操るので力仕事だ。イエメンにしては高価だし、センスある色柄が少ないこともあって誰も買わなかった。

漆喰作り・日干しレンガ作り・炭焼き・ラクダの油絞り・ティハマ織り。イエメンではこのような前近代的な作業が当たり前のように行われている。イエメンの何がよかったかなと考えた時に、どうしても挙げたいのが、手作業が生活に入り込んでいる前近代的な生活だ。

世界遺産に指定されたが、荒れ放題で今は危機遺産。 ゴマの油をとるために、ラクダがぐるぐるまわって石臼を引いている。 紅海沿岸ティハマ地方独特のティハマ織りはすべ手作業だ。

 イギリスで産業革命が起こってから250年以上も経つのに、同じ地球という星で、まだ手工業が行われている。新鮮な驚きだった。アラビアンナイトのように面白いストーリーには出会えなかったが、アラビアンナイト時代の中世的な社会を垣見ることができた。。

5時ころに、ボディダのホテルに到着。ボディダはイエメン第4の都市で、アデンにつぐ貿易港。外国人が多い土地柄か、ここでも本物ビールが飲める。私のように酒が飲めない者には、どうでも良いことだ。

今日の夕食は隣にシャーミーさんが坐った。「明日はサナアですね。久しぶりに奥さんに会えますね」と冷やかしたら、大まじめな顔で返ってきた。「結婚したのは僕がまだ大学生の17歳。奥さんは14歳。寂しいなんて昔の話です」。シャミーさんは54歳。27歳の娘から9歳の息子まで5人の娘と2人の息子がいる。7人の子は多い方ではないという。そういえば大学生のムハンマド君も7人きょうだいだった。

よくも大家族を1人で養っていけるなあと思うが、もともと恵まれた家だったような気がする。英語はエチオピアに留学して身につけ、旅行会社がドイツに派遣してくれたのでドイツ語も話せるようになった。自宅の間取りは、キッチン・3つのベッドルーム・居間・マフラージュ(客を接待する部屋)。これがどの程度のものなのか比較のしようはないが、自家用車も持っている。トヨタのクレシーダ。ただし1982年のものだから相当古い。

シャーミーさんの27歳の娘は結婚していて、孫が2歳。ケータイの待ち受け画面は孫の写真だった。母親が14歳で結婚したころに比べ、教育を受けた女性の結婚はずっと遅くなっているようだ。シャーミーさんの娘は大学在学中も含め、みな高等教育を受けている。成績が良いと、国立大学の学費は免除になりその恩恵も受けているとか。高等教育を受けた女性の受け皿があるのかどうか聞きそびれたが、教師や公務員など女性が働く場が増えているらしい。でもスークやレストランで働く女性は、ひとりも見かけなかった。
                         <ボディダのタージアウサンホテル泊>  (2011年1月16日 記)

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