スロベニア・クロアチアの旅4
 

2004年8月15日(日) -6日目


8時半にスプリットを出発。車窓からは、右にアドリア海、左はところどころに湖。バスの右側が断然きれいだが、左側しかとれなかった。途中で少しだけ席を替わってくれた人がいたので、有り難かった。

面白いことに、ほんのちょっとだけ、ボスニア・ヘルツエゴビナに入った。そこでトイレ休憩。海岸線の距離はどのぐらいだろう。短くてもボスニア・ヘルツエゴビナにとっては貴重な海岸線だ。スロベニア・クロアチアの旅2の旧ユーゴスラビアの地図を見ると、ボスニアヘルツェゴビナにも海岸線があることが分かる。

首都はサラエボ。まだテロもあり、紛争の名残があるらしい。サラエボといえば、第一次世界大戦の原因になった都市だ。あいかわらずきな臭いらしい。NATO軍がまだ駐留していると聞いた。
トイレ休憩で少しだけボスニア・ヘルツェゴビナ入国したのだが、写真を撮りそびれてしまった。

1時頃ドブロヴニクに近いレストランで昼食(ペンネのトマトソース、サラダ、ティラミス)

ここのレストランで、はじめてアフリカ系の人を見た。フランス、イギリス、ドイツにはアフリカ系の人が大勢いるが、スロベニアでは見かけなかったし、クロアチアでも初めてだ。向かいに座ったKさんに「あの人には日本人の血が混じっているような気がするんだけど」と話したら、Kさんも「そうですね。きっと入ってますよ」。

実は、このアフリカ系の青年こそ、今回のガイドの中でいちばん印象に残ったTK君だった。想像どおり、母親が日本人だった。

ホテルにチェックイン後、3時30分にバスでドブロヴニクの旧市街へ。バスの中でTK君が紹介された。ガイドの資格はとっているが、今日がデビューなので、お目付役の中年の女性が一緒だ。

親切とは言えない現地ガイドと添乗員の通訳の乏しさに、ツアーの仲間も失望していたので、日本語が達者な彼の出現を喜んだ。見るからに礼儀正しい好青年なのだ。だれもがファンになってしまった。

母が日本人としても、父親の名をなぜ名乗らないのだろう。姓も名も漢字だ。「どうしてお父さんの姓を名乗らないの」「ボクは東京で生まれたのですが、その時にはもう父がいなかったので、父の顔を知らないんですよ」。まずいことを聞いてしまったなと思ったが、屈託がない彼は続けた。「母は小さいボクを連れてヨーロッパを旅していました。ドブロヴニクで宿を探しているときに、今の父に出会ったんです」。

クロアチアで内戦が始まったのは1991年。20歳の彼が6歳の時だ。内戦が始まったので港へ逃げた。

イタリアの船が乗せてくれることになったが、日本国籍のTK君と母は許されたが、クロアチア人の父と妹は拒否された。母が別れるのはイヤだと泣いたので、父や妹も乗せてもらえた。

上の写真は1992年、ドブロヴニクを見張るセルビア人兵士。(ネットの借用)。恐ろしさが伝わってくる。

無事脱出できた一家は、母のふるさと・鹿児島で9年間過ごした。だから彼らは内戦を1週間しか知らない。1週間とはいえ、セルビア軍に攻め込まれた時の恐怖と言ったらなかった。ナイフひとつで抵抗したほど、急激に襲われたそうだ。

フォトジャーナリストの父は、内戦の写真を撮るために鹿児島からクロアチアに一時帰国した。写真展を日本で開いて好評だった。しかし、父親が日本になじめなかったので、またクロアチアに戻ったという。

妹は15歳。彼が好青年なことから察するに、素晴らしい家庭を築いているようだ。ちなみに母は武蔵野音大を出ているので、今もピアノを教えている。社会主義時代のユーゴスラビアを母子だけで旅していた。語学力と勇気がなければとても出来る事ではない。素晴らしい女性なのだろう。会ってみたいものだ。

ドブロヴニクは、ブリトビチェ国立公園と並んで、今回の旅のハイライトだ。「アドリア海の真珠」と言われる。景色の良さを表すには「ダイヤ」ではなく「真珠」を使うらしい。○○の真珠というフレーズをあちこちで聞いたような気がする。

貿易で経済発展したドブロヴニクは11~12世紀に富豪や貴族が台頭し、16世紀までには3層の階層ができたが、ほとんどは中流に属していた。特に15~16世紀にはヴェネチアと並ぶ貿易都市として栄えた。1667年の大震災後も見事に復旧した。ドブロヴニクが独立都市共和国として幕をおろすのは1808年のことだ。

 
貿易都市国家だった頃を彷彿させる
 
海から山に向かって住宅街


城塞の入り口にある爆撃地図の説明から始まった。セルビアの攻撃で被害を受けた地点に三角印がついている。三角印は数え切れないほど多く、住民は避難したので、一時は廃墟だったという。しかしユネスコの援助により、復旧は早かった。今は落ち着いた旧市街だが、屋根を見ると修復した部分は真新しくて情緒がない。

城塞入り口のピレ門には、守護聖人の聖ブラホの像が立っていた。聖ブラホは私には馴染みがないが、ドブロヴニクにとっては大切な聖人らしく、彼を祭った聖ブラホ教会もあった。門のすぐそばにオンファリオの大噴水。天然水で飲むと美味しいというので、ペットボトルに入れて持ち歩いた。なにしろ暑いし、人も多い。すぐ水が欲しくなる。

 
城塞入り口のヒレ門には聖ブラホの像
 
オンファリオの大噴水の水は美味しい


フランシスコ会修道院は、14~15世紀に建設。現存の建物は大地震後の再建だが、中庭は当時のままだという。1317年に開業したクロアチア最古の薬局があり、陶器のきれいな薬壺が棚においてあった。

大聖堂は17世紀にバロック様式で再建された。宝物館には貿易で栄えていたことの栄華を示す金細工がたくさん展示してあった。聖ブラホの手の骨、足の骨がその形をした金細工のなかに収められていた。

 
フランシスコ会修道院の薬壺

 
バロック様式の大聖堂
旧港を見学後、ガイドと一緒の観光は終わり。1時間の自由行動のあとに集合だ。自由行動になっても、ほとんどの人はTK君を囲んで質問攻め。建物の説明を聞く人など誰もいない。みんな内戦や、今の人々の生活を聞きたがった。TK君にとってデビューの日。日本人がどんなことに興味を持っているかは、今後ガイドをするうえで大事なことだ。ドブロヴニクには100人のガイドがいるが、日本語を話せるのは一人。今後は日本のツアーのたびにお呼びがかかるのは必至だ。

なぜ内戦が起こったのか?当時の日本では、カトリックとセルビア正教とイスラム教の争いが根底にあると言われたものだ。しかしTK君によれば「ユーゴは社会主義でしたから基本的には宗教は禁止だったのです。だから宗教が争いになるはずはない。上層部の権力闘争だった」

そういえば、同じようなことを、トルコの大学生に聞いたことがある。トルコを旅している時に、そこから近いバルカン半島では、殺し合いがあった。「どうして宗教や民族の違いであそこまで争うの」。「宗教でも民族でもありませんよ、権力争いだ」と当たり前のようにガイドは語った。

彼ははこうも続けた。「チート(クロアチアではチトーとは言わない)が、ひとつの国に作る前は、もともとセルビアが強かったのです。チートがいる間はまとまっていましたが、彼の死後、セルビアが威張りだしたんです」

「チート時代の方が経済的に豊だったのです。先日投票したら、社会主義時代の方が良かったと言う人が85%もいました。クロアチアには失業者が多いですよ。でも助け合いの精神があるからか、乞食はいません」。彼の言う話がどこまで真実か判らない。現に首都のザグレブでは、赤ちゃんを連れた若いお母さん乞食を2人も見かけた。表面的には、街のたたずまいは綺麗でしっとりしている。身なりもこざっぱりした人が多いだけに、乞食がいたのにはびっくりした。

7時からホテルに近いレストランで夕食。(シーフードスープ、魚のタルタルソース、サラダ)。今日はめずらしくドライバー、添乗員、TK君が一緒のテーブルについた。これまでドライバーの話が聞けなかったが、今日は通訳がいるので話を聞けるチャンスだ。

「内戦の時は戦ったのですか」「ええ、セルビアの国境付近で、兵士の輸送をしました。直接戦ったわけではないけれど、前線で運転していたので、怖かったですよ」と60歳近いドライバーは語った。がぜん親しみがわいてしまった。やはりコミュニケーションをはかるには、身振り手振りだけでは無理だ。

<ドブロヴニクのティレナ・ドブラーヴァホテル泊>

(実際の旅より16年遅れの 2020年5月16日 記)

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