ポルトガルの旅 10
ロカ岬と少年使節

 もうすぐ90歳になる母が、30年も前に行ったポルトガルの思い出として真っ先にあげたのがロカ岬でした(右写真)。ヨーロッパ大陸の西の果て、しかもイベリア半島のほんの一部が領土であるポルトガルにしてみれば、海こそが活路の道。西の果てが観光の目玉になるのは、当然かもしれません。

 リスボンのホテルを朝出発したバスは、途中シントラの宮殿を見学してロカ岬へ。帰途はカスカイの港に寄るなどしても、昼にはリスボンに戻っていました。リスボンから近いのです。

 ポルトガル2週間の旅で、青空が見えなかったのは、ロカ岬だけでした。この日が曇りだったのではなく、ホテル出発時はいつものように夏空が広がっていたのに、岬に着いたとたん、空は曇るは、強風が吹くは。観光バスが数台あることを除けば、荒涼感といい、断崖絶壁といい、まさに地の果てでした。

 左写真の「到達証明書」をもらいました。この種の証明書は、天安門の上に立った、北極上空を飛んだ・・など、どうでもいい代物ばかり。

 自分では絶対に買いませんが、ツアー代金に含まれています。自力で到達したなら、多少の記念になりますが、バスに乗るだけで簡単に到着。「到達証明書もないもんだ」と、ブツブツ。

 カリグラフィーなので重々しく見えますね。2002と26の数字や名前は手書き。2002年8月26日の訪問でした。訪問者101282人目の記述も、証明書を買わない人もいるのでいい加減なものです。

 ロカ岬が有名なのは、「ここに地果て、海始まる」のフレーズのおかげでしょう。右写真の「KABO DA ROCA」の下に小さく書いてあります。詩人カモンエスの愛国的叙事詩「ウス・ルジーアダス」の中の一節。彼は、発見のモニュメントの群像の一人、リスボンの世界遺産「ジェロニモス修道院」には、ヴァスコ・ダ・ガマと並んで石棺が置かれているほどの詩人です。

 カモンエスが生まれたのは1525年。亡くなったのは1580年。生まれる前には大航海時代が始まり、インド航路も発見、ブラジルも所有していました。カモンエスがロカ岬を「海始まる地」と思ったはずがありませんが、事実云々よりも、気分では「海始まる」岬だったのでしょう。

 このフレーズが刻まれている塔(左写真)は、事務所と売店があるだけの寂しいロカ岬では、唯一のモニュメントです。


 話のついでに、途中立ち寄ったシントラについてちょっと。ここは長崎の大村市と姉妹都市。1584年の8月下旬に、天正の少年遣欧使節が、シントラに招待されています。九州の大名・大村純忠らが少年を遣わしたことからの、姉妹都市提携です。

 少年使節のポルトガル・スペイン・イタリア訪問の史料は、ヨーロッパにたくさん残っています。正確な日付がわかるのもそのため。出版数で言えば、少年使節ほど知られた日本人はいないとのこと。大歓迎されたようですよ。詳しいことを知りたい方は、松田毅一著・講談社学術文庫の「天正遣欧使節」を是非お読みください。

 シントラは、夏の避暑地として王侯貴族に愛された町です。王宮は、14世紀にエンリケ航海王子の父・ジョアン1世が建築。マヌエル1世が大々的に増築しました。写真の2本の円錐形は台所の煙突ですが、町のシンボルになっています。

 王宮外観は質素ですが、内部は豪華絢爛。アラビア風の部屋、アズレージョで飾られた部屋、紋章ばかりの部屋など。撮影禁止なので、右の絵葉書をごらんください。下部の壁面は、もちろんアズレージョ。

 ロカ岬の帰路に、もう一箇所、少年使節に関係ある地・カスカイス(左写真)に寄りました。

 ここは、1584年8月10日に一行の船が投錨した港町。長崎出発は1582年ですから、途中マカオ、マラッカ、ゴアに寄ったとはいえ、2年以上かかっての到着でした。

 12時間で着く今でさえ、13歳の子供が親を離れてヨーロッパに行くなどめったにないこと。当時の航海技術では無事にたどりつく保証もなかったのです。カスカイスに投錨したときの少年たちの気持ちは、いかばかりであったことか。

 彼らの悲劇は帰国後。出発はバテレンを保護した信長の時でしたが、帰国した時には、バテレン追放令を出した秀吉の天下になっていました。ローマ法王に謁見したとなれば、世が世なら大変な名誉なのに、まるで罪人扱い。皮肉というか哀れというか。 (2003年12月15日記)

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