母が語る20世紀

 22.  仙台空襲 後

 昭和20(1945)年7月10日の夜が明けた。夏の夜明けは早い。B29による攻撃終了が夜中の2時半頃だから、まどろむ暇もなかった。

 空が白むのを待って、北四番町の家に駆けつけた。全焼しているに決まっているが、淡い期待を持つのは当たり前だ。

 灰が何層にも重なり、あたり一面が白っぽかった。その中で、鉄の茶釜が、ぽつんと残っていたことを覚えている。父が大家さんでもあるOさんに、お茶をならっていた事は「20世紀20」で書いたが、いつでも点てられるように、釜は出してあった。

 焼け残った鉄製品は他にもあったと思うが、脳裏に焼き付いているのは茶釜だけだ。戦火をくぐり抜けた茶釜は、今は私の家にある。きょうだい4人の中で、細々ではあるがお茶を続けているのは、私ひとりなので、誰からも文句は出ない。

 右2枚は、「7月10日の記録-仙台市戦災復興記念館発行-」の写真をコピーさせてもらった。

 上の写真の説明には、「県庁から北方 堤通方面をのぞむ」とある。焼け出された私たちの家のあたりを撮っている。借りていた家は、県庁から徒歩10分足らずの所にあった。

 下は、「瓦礫の原と化した仙台駅前」とある。「20世紀19」に載せた昭和12年頃の駅周辺は、見る影もない。幸い、線路に被害がなかったので、数日後には、輸送が始まったそうだ。

 空襲が終わって、ほっとしたのもつかの間、焼け跡に戻ってみると、たくさんの悲劇情報が待っていた。

 近所に住む東北大のY先生の奥様が「家の子を見ませんでしたか」。狂ったように探し回っていたと、父の手記にある。子だくさんの家が多かったので、避難するときに、離ればなれになったこともあったようだ。7月9日の夜は、何度も出された警戒警報が、22時22分に解除されたために、安心して床についた人や、防空服を脱いでしまった人が多かった。寝入りばなを襲われた家で、家族の半分が助かり、半分が亡くなるという、お気の毒な話も聞いている。

 近くに下宿していた、親戚の大学生・Gちゃんも亡くなった。私はGちゃんを覚えていないが、ほとんど毎晩遊びに来ていたという。Gちゃんは、クラシックのレコードを何枚も持っていたが、蓄音機がなかったので、私の家に黙ってあがりこんで、蓄音機を使っていた。7月9日もレコードを聴いていたが、父が帰ってくる直前に、Gちゃんは下宿に戻った。下宿の同居人の話では、レコードを持ち出そうとして、逃げ遅れたという。
 
 道路の向かい側にあった教会の牧師さん一家は、防空壕の中で全滅した。「教会のみなさんが、行方不明なんです。今から防空壕を開けますから、奥さん立ち会ってもらえませんか」と、母は頼まれた。防空壕を掘ったところ、軍刀を立てて座ったままの姿で、亡くなっていた。

 「卒倒しそうだったので、『奥さん、もういいです』と解放してもらったのよ」と母は語る。防空壕の中で、蒸し焼きになったのではないか。

 母が「教会は今もあるはずだ」というので、仙台に行ったときに、寄ってみた(左)。「仙台ホサナ教会」となっている。ホサナ教会をgoogleで検索すると、戦争中は市内の別の場所にあったようだ。今あるホサナ教会は、亡くなった牧師さんとは違う会派かもしれない。

 私の一家は、一旦は自宅の防空壕に入ったが、危ないと判断して、逃げることにした。父と偶然出会った、道ばたの防空壕からも、避難している。爆弾の下を逃げ回るのと、防空壕と、どちらが安全か。一概には言えないが、結果的には、私達6人は無事で、教会の方はお亡くなりになった。東京から疎開していた小学生のお孫さんも亡くなったという。危ない東京を避けて仙台に疎開したばかりに、こんなことになってしまった。防空壕は、こんなに、もろいものだったのだ。

 防空壕に固執しなかったことで命拾いした私たちだが、防空壕には苦い思い出がある。人間が避難する防空壕以外に、縁の下にタンスや茶箱を入れた防空壕を掘ってあった。いざという時に、土で蓋をしようと、シャベルを用意しておいたが、土をかけずに逃げざるを得なかった。気がかりだった父が、一旦引き返したが、なす術がなかったことは、「20世紀21」でふれた。

 焼け跡で真っ先に近づいたのは防空壕である。入口がくすぶっているではないか。燃え広がっては大変と、タンスを掘り出すべく土をよけ始めた。土をよけるたびに、煙は中に入りこんでいく。燃えないためには、土をかぶせて酸素を遮断すればいい。小学生でもわかることなのに、こともあろうに化学者の父が、まったく反対の行動をとってしまった。「ほんとに恥ずかしい」と、父の口から何度も聞いた。それだけ動転していたのだろう。

 煙が入り込んだために上から下へ焼けて、重ねてあった洋服や和服の端が全部焦げてしまった。食べ物と着物を交換してもらおうにも、全てが使い物にならず、それすら出来なかった。

 空襲の翌日に発行した新聞がある。河北新報に勤めている小中学校の同級生に、「仙台空襲の記事を読みたいんだけど」と10年ぐらい前に頼んでみた。「ウチでは保存していないんだよ。県立図書館にあると思う」という意外な答えが返ってきた。以下は、図書館で、マイクロフィルムをコピーしてもらったもの。

 当然ながら、7月10日の新聞はない。7月11日の日付である。河北新報の題字の下には、読売報知・毎日新聞・朝日新聞とあるところをみると、共同で発行したのではないだろうか。それも、この1枚だけのダブロイド版の新聞である。左下に「仮事務所開設御通知」とあるから、河北新報の社屋も被害にあったようだ。


 話に聞いてはいたが、よくもこう嘘で固めたものだ。「負けぬぞ、サア仇討ちだ 明けた一夜 颯爽 市民の群れ」「市民の戦意落ちず」「生産陣異常なし」「断じて戦いへ」の活字を拾わねばならなかった新聞人は、どんな気持ちだったのだろう。お会いして、話を聞いてみたいものだ。

 記事の内容が正しいのは、B29の数だ。米軍・国防省の資料には123機とあるから、ほぼ合っている。次の日に、どうしてわかったのだろうか。13,000発のナパーム入りM46焼夷弾、ガソリン弾、M69集束爆弾が使われた。総量911トン。13,000発もの爆弾が降ってくる光景は、想像するだけで身震いする。米軍の損失機は、滑走路で炎上した1機(乗員は無事)だけ。報告には「戦果優秀。対空砲火は弱く、不正確だった」と記されている。

 被害状況はどうだったのだろうか。いずれも概数だが、被災戸数は12,000戸(全戸数の23%)、被災人口57,000人(全人口の26%)、死者は1,100人〜1,400人。死者の数がはっきりしないのは、被災後に疎開先で死亡した人の数がつかめないからだ。

 官公庁・銀行・学校i以外に、伊達藩時代の貴重な文化財も失われた。主なものでは、仙台城大手門・隅櫓、政宗の御霊が眠る瑞鳳殿、藩校だった養賢堂、亀岡八幡宮など。経済が復興するにつれ、官公庁や会社は再建されたが、文化財までは手が回らない。伊達60万石の、元城下町を思わせる史跡がほとんどない町になってしまった。

 私が住んでいた40年前の仙台は、人口は50万人弱にすぎなかった。今は100万人を超えた。隅櫓、瑞鳳殿は再建され、供出していた青葉城趾の伊達政宗像も復元された。江戸時代の面影はまったく感じられないが、市街地の発展には目を見張る。

 左は、借家があった場所の現在の写真。当時は北四番町という町名だったが、今は上杉に変わっている。

 大家のOさんの本宅も焼けたので、戦後は、Oさんがここに本宅を建てた。私が学生時代に、お茶の稽古に通っていた時に、おばあちゃん先生が「はこちゃんの家は、このあたりにあったのよ」と茶室の場所を指さした。7月10日の朝に見た、白っぽい灰だらけの焼け跡は、想像すら出来ない。(2005年7月10日未明-仙台空襲60年の日-に 記)

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