日本史ウオーキング
   60回 家康と三河武士のふるさと (江戸時代)


江戸の町は、河川の改修や海の埋め立てによって大都市に変貌をとげた。その様子を、58回59回で見てきた。425年ほど前に、これほどの大工事を指揮した家康の偉大さ、先を見る目をあらためて認識するウオーキングになった。

260年もの泰平な時代「徳川の平和(パクス トクガワ)」の礎を築いたのも、家康である。ローマが5賢帝によって治められていた時代を「パクス ロマーナ」と言うが、それにちなんで、最近は「パクス トクガワ」なる言葉が盛んに使われるようになった。

ところが、東京には家康ゆかりの地がほとんどない。旧江戸城の周辺には、銅像すら建っていない。徳川の世が終わったとはいえ、あまりにも軽視されているような気がする。家康像は、江戸東京博物館の裏手にひっそりと立っているだけだ。

その点、静岡や浜松や岡崎での家康人気は高く、観光の目玉になっている。

駿府(静岡)は、家康が人質として約12年間暮らしていた地、将軍職を秀忠に譲ったあと晩年の約10年間を過ごした地である。将軍をゆずったとはいえ、「大御所」として実権を握っていたのは家康だった。当時は江戸をしのぐほどの繁栄だったという。駿府城は明治期に取り壊された。今ある巽櫓は平成元(1989)年の、東御門は平成8(1996)年の復元である。駿府公園には数年前に行った。

浜松は、家康が29歳の時から45歳まで17年間過ごした地である。元亀元(1570)年に長男の信康に岡崎をゆずり浜松に移った。姉川、長篠、小牧・長久手、三方ケ原など有名な戦いは、この城にいるときだった。徳川時代になると、松平・水野・井上などの譜代大名が城主になった。ここも明治期に壊されたが、昭和33(1958)年に、再建。ここに行ったのはかれこれ10年前だが、家康の像が若々しかったことを覚えている。


江戸博にある家康像 駿府公園にある家康像 浜松城公園にある家康像
 江戸東京博物館(墨田区)の
裏手にひっそり立つ家康

駿府公園(静岡市)に立つ
鷹狩姿の家康

 
 浜松城公園に立つ
若き日の家康


生誕地の岡崎は30年前に立ち寄っただけで、記憶がうすい。家康や三河武士を生んだ風土を少しでも理解するには、岡崎を歩き回るしかない。ということで、2014年4月、四国を訪ねた帰途に岡崎に一泊して丸一日を過ごした。

家康と三河武士の理解が深まったのは、ひとえにガイドの内藤晴義さんと原田光子さんのおかげである。桜の満開は過ぎていて観光客は少なかったし、誰もがガイドを頼むわけではない。私ひとりのために、お2人が2時間近くも説明してくれた。後で知ったことだが、通常は30分コースと1時間コースらしい。

岡崎城家康の先祖の地は、奥三河の松平郷(今の豊田市松平町)である。当時は山間の地。米が収穫できるような郷ではなかったと聞く。こんな過酷な地を抜け出して広い沃野を求めたのは、当然だ思う。

祖父・松平清康の時代に、岡崎の地に進出した。ところがせっかく広い沃野に来たとたん、一族の間で争いが起こり、祖父の清康は暗殺される。

こんな不穏な時、天文11(1542)年に家康は生まれた。胎盤を埋めた「えな塚」や、産湯を汲んだ井戸も残っている。「弱小領主の松平家が、胎盤を保存して埋めるような手間のかかることをするだろうか?」とチラと思うが、あえてケチをつけることもないと黙っていた。いずれにせよ、こういう物証は、半ば嘘くさいと思っても楽しい。

その後、母は離縁されて去り、父の広忠も暗殺される。幼い家康は、大人の思惑で転々とさせられる。6歳で織田の、8歳で今川の人質になる。あるじ不在の岡崎城は今川義元が派遣した代官が治めていた。無禄の身になった三河武士の生活は、相当苦しかったはずだ。

長い人質生活が終わったのは、今川義元が桶狭間の戦いで死んだ後。岡崎城に戻った時には、19歳になっていた。29歳の時に浜松に移っているので、岡崎城に住んだ時期は幼少期を含め10数年だ。

江戸時代には、本多氏(忠勝系)、本多氏(康重系)、水野氏など格式の高い譜代大名が城主についた。譜代大名のほとんどがそうであるように、石高は5万石にすぎないが、「神君出生城」の城主になるのは、とても誇らしいことだった。明治以降は城が取り壊され、今ある天守閣(左)は、昭和34(1959)年の復元である。

「なんといっても岡崎は、家康が生まれた地です。徳川宗家18代の徳川恒孝氏も、たびたびいらっしゃいますよ」と内藤さんは嬉しそうに説明してくれた。「18代は日本郵船の副社長をなさっていましたが、今は徳川記念財団の理事です。”しかみ像”も18代が寄贈してくださいました」

「家康が三方ケ原で武田信玄に負けたときの姿ですね。絵では見たことがあります」

「そうです。家康はこの負け戦を教訓にするために、合戦時にはこの絵を持ち歩いていたそうですよ」

あたかも徳川時代がまだ続いているかのように、「18代は・・」という話になる。岡崎はこういう町なのだなあと、いたく感銘をうけた。

えな塚 産湯を汲んだ井戸 しかみ像
家康の胎盤を埋めている
えな塚

家康の産湯を
汲んだ井戸

 
 三方ケ原の戦いで
負けた時に描かせた絵
をもとに作った「しかみ像」



松平元康徳川家康「この若い像(左)は、人質から解放されて岡崎に戻った19歳の松平元康です。人質とはいえ、彼も今川軍として戦ったわけですから、憂い顔をしていますね」

「それに反し、こちらにある像(右)は、関ヶ原の戦い勝利後の59歳の徳川家康をイメージして作ったので自信に満ちた顔です。この2つの像を比べると苦節40年という言葉がぴったりだと思いませんか」と、内藤さんは非常に分かりやすい説明をしてくれた。

ちなみに、家康は幼名は竹千代、元服で松平元信を名乗る。17歳で元康と改名。22歳で家康と改名。25歳のときに、勅許を得て徳川家康になった。何度も改名したのは何故なのか、姓を徳川にしたのはなぜなのか。理由は聞きそびれてしまったが、元の姓の松平だと「松平幕府」。声に出すと言いにくい。

若い元康像のそばに、三春から移植した滝桜が植えてある。「この木がもうちょっと大きくなると、家康像まで枝が伸びるはずです。元康と家康を結ぶ桜を想像するだけで、今からワクワクします」と内藤さんと原田さんは言う。

「そうですよねえ。木が大きくなったら3人で花見をしたいですね。私も横浜からきます!」と約束した。

本多忠勝家康が岡崎城主の時期に家臣となった家々を、三河譜代と呼んでいる。のちに家康が天下をとったのは彼の器量にもよるが、無骨で頑固な三河武士団の力が大きかったという。

苦難を共にした彼らには深い絆が生まれ、江戸幕府を支えたのも三河武士である。親藩と譜代の279藩のうち、123藩が三河武士で占められていた。

家康の側近として仕えた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政は徳川四天王と言われる。

なかでも本多忠勝に対する家康の信頼は厚かった。「家康に過ぎたるものは2つある、唐のかしらに本多平八」と狂歌に歌われたほどだ。初陣は13歳、57回出陣したが、かすり傷も負ったことがないという。

「頭も良かったと思いますが、運動神経が抜群だったのでしょうね。槍が得意で6mを超える長槍でトンボも切り落としたそうです」と説明してくれた。

四天王の中で、岡崎城公園に銅像があるのは本多平八郎忠勝(左)だけだ。彼自身は、上総の大多喜藩の初代藩主や伊勢桑名藩の初代藩主を務めたが、岡崎の藩主にはなっていない。でも子孫は何人も岡崎藩主になっている。

公園内にある龍城神社は、岡崎城内にあった東照宮と本多忠勝を祀る神社が明治期に合祀されたもので、本多家に由来がある。


龍城神社こんなことからも「本多一族は毎年のように岡崎に集まってサミットを開いているんですよ」のガイドさんの話は納得がいく。400年以上前に戦場を駆け巡った人たちの子孫は、集まって何を話すのだろうか。いちど聞いてみたいものだ。

龍城神社の宮司と内藤さんは親しい間柄らしく、にこやかに会話を交わしていた(左)。それもあって、特別に、龍の轟が鳴り響く神前でお詣りすることができた。

ひとりで回っていたら気づかずに通り過ぎていた史跡の説明を受け、得難い経験までさせてもらった。これまでにたくさんの史跡を回ってきたが、素晴らしいガイドに巡り会えた地の思い出はいつまでも消えない。ほんとうに有難い。

岡崎は5万石の城下町であると同時に、宿場町でもあった。特別な城があった町なので、東海道五十三次の中でも大きな宿場町だったと聞いた。次回は宿場町岡崎について書くつもりだ。  (2014年4月23日 記)

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