チュニジアの旅 10
ローマ時代の遺跡 前

  北アフリカの国は、いずれもローマ帝国に支配されていましたが、ローマ時代の遺跡がいちばん多いのはチュニジアです。ローマはBC29年にカルタゴを建設しました。(チュニジアの旅9参照)。カルタゴは、ローマ、アレキサンドリア、アンティオキアと並ぶ大都市に発展。遺跡が多いのは、当然と言えば当然なのです。前後2回にわたってご紹介します。

ザグーアンの水道橋













 ザグーアンの水道橋は、水源のザグーアン(1295b)からカルタゴの浴場まで132qも続き、世界最長。ハドアリヌス帝のAD138年に完成。

 ほとんどが地下を通っていますが、現在残る橋だけで20qもあるそうです。フランスのポン・デガール(南フランスの旅参照)の美しさには適わないだろうけれど、形ある橋を想像していました。でも、壊れかけたアーチが残っているだけ。道路沿いにあるので、よほど離れないと全景も写せません。いちばん保存状態が良いのがここですから、他は推して知るべし。左と右の写真は同じ時に撮っています。左は、逆光撮影なので、シルエットになりました。

カルタゴのアントニヌスの共同浴場

 ザグーアンの水道橋が完成した年にハドリアヌス帝が没。次ぎに即位したアントニヌスの治世は23年間にもおよび、のちにローマの黄金時代と言われました。

 彼が寄進した共同浴場跡が、カルタゴにあります。(右写真)。遺跡から推測するに、2階には、着替え室・温浴風呂・水風呂・サウナ・プール・噴水・談話室など100もの部屋。1階は冷浴室。現存の円柱の高さが15bもあることから、天井の高さは30b以上あったと推測されます。円柱や床は大理石。モザイク画。

 水道橋は1日目、共同浴場は最終日の見学でしたが、両方を見たことによりザグーアンの水道橋がより具体性を帯びてきました。飲料水確保のために水を引くならともかく、一種の娯楽のために132qにもわたる工事をしたのです。毎秒300gの速さで水が流れていましたが、傾斜具合や溝の堀りかたに狂いがあれば流れません。測量や土木技術が進んでいたことに驚いてしまいます。

 ローマ人は、寺院・宮殿建築や彫刻・絵などに力を入れる以上に、人間が人間らしい生活をするためのインフラ整備に力を注ぎました。快適な市民生活に必要なものが何であるかを、2000年前に分かっていたのですね。

 賢い為政者のおかげで豊かな生活を送っていたローマですが、繁栄はつかの間。395年に東西に分裂し、西ローマ帝国は476年に滅びにいたりました。

円形闘技場

 チュニジアには、25もの円形闘技場が残っていますが、もっとも保存状態が良いのが、エル・ジェム(チュニジアの旅1の地図参照)にあるもの。ローマのコロッセオより良いと言われています。左の空撮写真は絵はがき。

 長径148b、高さ36b、アレーナの長径65b。ローマ世界では4番目の大きさです。

ガイドのMoez君は、概要ばかりでなく、地下の部屋(右下写真)にいたるまで逐一説明してくれました。左右に8つの檻があり、闘う前の猛獣は、檻ごとロープで引き上げられる仕組みになっています。猛獣というとライオンをまず思い浮かべますが、ヒョウー、トラ、クマ、ウマ、ラクダ、クマ、ウマ、ラクダ、ロバ、イノシシ、ウシ、サイ、カバなど多岐にわたっていました。

 チュニジアだけで25もの闘技場があったのは、それだけ、ローマ人が血を見ることが好きだったという証拠。剣闘士と剣闘士、猛獣と奴隷、猛獣と猛獣、キリスト教徒と猛獣、猛獣と囚人などいろいろなパターンがあったと聞きます。時には、闘技場に放たれた猛獣の前に、囚人が裸で突き出されることも。「殺せ!鞭で打て!火をつけろ!」と、観客が総立ちになっている映画を数度見ています。「皇帝ネロ」もそのひとつでした。

 円形劇場が隣に併設されている場合も多く、ギリシャ喜劇や悲劇が上演されていたのでしょう。キリスト教徒がライオンに殺される場を目撃した人が、翌日には、アリストファネスの喜劇を見て、笑い転げていたかもしれません。ローマの遺跡を見学するたびに、人間の持つ二面性を思い、身震いしています。(2004年6月13日 記)

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