フランス紀行  
2012年7月11日(水)〜7月18日(水)

ジヴェルニーとルーアン 
モンサンミシェル
ロワール川流域の古城とシャルトルの聖堂
パリのぶらり旅1
パリのぶらり旅2
パリのぶらり旅3


フランスの旅1
 ジヴェルニーとルーアン

今回の旅はわずか8日間。短期間でしかも夏休み時期だから、参加者の年齢層が若い。夫婦参加は3組で、1組は新婚さんだ。いちばん多いのが母と娘。夏休みを工面して参加しているOLが多かった。私たち以外の年寄りは、お嬢さん2人と参加していた80代後半の方。

地図短い割に充実していたのは、フランス北部とパリという狭い範囲の旅なので、移動時間に無駄がなかったからだろう。6月にアイルランド2週間の旅を申し込んでいたが、行けなくなってしまった。「どこかに行きたいなあ」と新聞広告を見ていて、ベストシーズンのフランスにしては格安のツアーを見つけた。

あとで分かったのだが、参加者27名は、微妙に条件が違う5つのコースの寄せ集めだった。「ビジネスクラスで行くフランス夢紀行」「全日空で行く・・」「感動の・・」「ベストBUY・・」。この4コースはすべて“フランス夢紀行“と最後についているが、私が選んだのは「旅コロンブス びっくりフランス紀行」で、
”夢“がついていない。

旅費にかなりの開きがあるようだが、結果的には同じANAに乗り、観光中のバスも同じ、パリの宿泊ホテルも同じだった。電話で問い合せた時はパリのホテルのグレードが違うと話していたが、パリ祭の時期のパリで、良いホテルが確保できなかったのかもしれない。いずれにしても私たちには好都合だ。飛行機のペアチケット代が、2人分2万円がかかった人もいる。ペアチケットと言っても単に2人が並べる席であって、どうということはない。

飛行機の席での新発見は、前日にネットで席を予約できたことだ。もちろん手数料などかからない。ANAのHPを開くと、ビジネスクラスとの境目のエコノミーとしては最前列の席に2つの空きがあった。この席は前に人がいないので鬱陶しくないし足も伸ばせる。とても得をした気分になった。

セーヌ川クルーズや、ヴェルサイユ宮殿のオプショナルにも申し込まなかったので、旅行社に支払った代金は間違いなく27人の中では最低だ。ヴェルサイユは2人とも前に行ってるし、もしその気になったら列車で簡単に行ける。

2012年7月11日(水)−1日目

成田発(11時20分)→ANAでパリ着(16時40分) 

いつものように、横浜の自宅を出たのは午前7時前だが、乗り換えなしで宿泊地に行ける旅はとても楽だ。ホテルに到着した時はまだ空は明るかったが、場末のホテルなのでコンビニを覗いただけで寝ることにした。  
                                      (パリのコンフォート・ダヴー・ナシオン泊)

7月12日(木)−2日目

今日は2ヶ所を観光しながら、モンサンミッシェルまで行く。8時にホテルを出発して、10時ころにジヴェルニーに到着した。

モネの家の近くジヴェルニーは、印象派の画家モネ(1840〜1926)が43歳から86歳で亡くなるまで、40年以上住んだ地。セーヌ川など水辺も多く、豊かな自然に恵まれている。モネが住み始めた130年前も、こんな風景だったような気がする。モネの家の周りでは、牛が草を食んでいた(左)

ちなみにパリの中心部を流れるセーヌ川は、ジヴェルニーなどフランス北部を通り、イギリス海峡に流れ込む。長さが780kmもある大河。

モネが日本の浮世絵を高く評価していたことは有名だ。1871年から収集した広重や北斎などの浮世絵は400点もあるという。1871年といえば明治維新の直後。日本の美術品が只同然の値で海外に流出していたころだ。安いとはいえ、芸術性を評価してくれたからこその収集であって、誇らしい気持ちになる。

モネの家・アトリエ・2つの庭園が主な見学場所である。40年以上住んだ家は壁がピンク色で窓枠が緑色。一見すると大規模ペンションのような佇まいだが、重々しさはなく親しみがもてる。家の前の庭は野性っぽい花が咲き、ワイルドな感じだ。

モネの家 モネの庭 睡蓮の池
 
モネが40年以上も住んだ家
内部も見学できる。内部には
収集した版画なども

 
モネの家の2階から見た庭
小花が咲き乱れ
ワイルドな感じがする

 
絵でもおなじみ
「睡蓮の池」
たいこ橋・柳の木・藤の木



日本をイメージした水の庭には、柳や藤の木が茂り太鼓橋もある。池には睡蓮。モネのライフワークとも言える「睡蓮」はみなここで生まれた作品だ。池をめぐる道路は観光客でいっぱいで、写真を撮るのさえままならないほどだったが、名画の場に立っている幸せを感じる。

次はルーアンに移動し、そこのレストランで少し遅いランチをとった。名物「鴨料理」ということで少し期待していたが、パサパサした鴨肉だった。

ジャンヌダルク昼食後、日本人ガイドの案内でルーアン市内を徒歩で巡った。ルーアンはノルマンディー地方の中心都市。ジャンヌ・ダルクが火刑になった場所にジャンヌ・ダルク教会が建っている。1979年に作られたモダンな外観である。

19歳のジャンヌ・ダルクは、1431年の宗教裁判で「魔女」とされ、ルーアンで処刑された。20世紀になってフランスを救った少女を見直す機運が起こり、「魔女」から「救国の聖女」に格上げ。今はルーアンの観光の目玉で、彼女の像もたくさん立っていた。左は大聖堂内のジャンヌ・ダルク。

この教会のすぐそばに市場がある。チーズ・野菜果物・車海老など魚介類以外に、鴨肉や兎肉など珍しい肉が並んでいた。

次はノートルダム大聖堂に行った。パリのノートルダム聖堂しか知らなかった26年前、初めて訪れたパリで、ノートルダムの意味を聞いた。

ノートルは「われらの」、ダムは「貴婦人」の意味。一般的には聖母マリアを指す。だからノートルダムと名のつく聖堂は各地にたくさんある。

ガイドが、13世紀から16世紀にかけてのステンドグラスの違いを一生懸命説明してくれた。簡単に言うと時代が経つにつれ文様が複雑で細かくなる。

この聖堂の正面を、モネが32点も描いている。季節や時間によって変化する微妙な色合いや光の具合を描き分けている。私も東京で開かれたモネ展や印象派展で何点か見ているが、箱根のポーラ美術館が1点、所蔵しているそうだ。日本に憧れながら一度も行かなかった日本に、彼の作品がある。今度箱根に行ったら、心して見てみよう。

ルーアンの大聖堂 ステンドグラス 時計台
 
モネがアトリエにしていた
大聖堂が見える部屋
ここで32点も描いた

 
大聖堂内部のステンドグラス
対面の影が映り
いっそうきれいだ

 
ルーアン市内の時計塔
ヨーロッパの旧市街では
お馴染み

ヨーロッパの旧市街にはお馴染みの16世紀ルネサンス様式の大時計がここにもあった。やはり16世紀の木組みの家を見学しながらバスに戻る時に、事件が起こった。

先を歩いていた私は気づかなかったのだが、3人で参加したひとりが、降りてくる駐車場のバーに頭をぶつけて額からかなり出血した。彼女は「大丈夫」と言うが、ツアーだから添乗員も現地ガイドもほってはおかない。救急車を呼び結局大きな病院に連れて行くことになった。なんやかんやで1時間ほど遅れた後に、彼女ら3人を残して出発した。

結果的には病院で縫ってもらい、事なきを得た。怪我の状況によっては始まったばかりの旅を止めねばならないところだったが、病院からタクシーでモンサンミッシェルまで駆けつけたので、観光にはなんら差し支えることはなかった。タクシー代も含め、みな保険で賄われるらしい。このときは現地ガイドがいたから良かったが、そうでなければフランスの病院で心細い思いをしただろう。    (2013年7月16日 記)

 

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