2015年8月24日(月)〜9月3日(水) 


スリランカの概要とアヌダーブラ 
シギリヤ・ロックとボロンナルワ遺跡
キャンティのペラペラ祭り
象の孤児院とサファリ
カタラガマの要塞の町ゴールとジャングルクルーズ
コロンボとニコンボ


スリランカの旅 1 
 

2015年8月24日(月)−1日目

13時20分(成田発)→スリランカ航空で19時10分(コロンボ着) 

時差が3時間半あるので約9時間20分のフライト

「暑い時に赤道近い国に行かなくてもいいのに」と言われたが、スリランカの気候は1年中ほぼ同じ。「東京の夏より過ごしやすい」という言葉を半分信じて出発した。メキシコ旅行についで2度目のTDR社のツアーだったが、メンバーはわずか11名。夫婦連れは2組で、他7名は1人参加の女性だった。もう1組の夫婦はメキシコで一緒だったYさん。

スリランカ航空は、日本の旅行会社6〜7社のバッジをつけている人を含め満席である。他の旅行会社の日程は5日間、7日間、8日間がほとんど。スリランカは北海道の8割しかない狭い国だけに、このツアーのように11日間は珍しい。多ければいいと言うものでもないが、滞在日数が多ければ多いほどその国が見えるのは確かだ。

恥ずかしながらスリランカについての予備知識は皆無に等しい。大きなインド大陸の南におまけのようについている島国。インドとは違って仏教の国。以前はセイロンと言ったが、1972年にイギリスから独立した時にスリランカになった。知っている地名はコロンボとシギリヤだけだ。

これではスリランカに失礼なので、外務省のサイトで調べてみた。人口は約2048万人。シンハラ人が72.9%、タミル人が18%、スリランカムーア人が8%。分かりやすく言うとシンハラ人のほとんどは仏教徒。タミル人の半数以上はヒンドウー教徒、スリランカムーア人のほとんどがイスラム教徒だ。

民族が混在している国にありがちなのだが、この国でもタミル人の一部がスリランカからの分離独立をめざし、26年間もシンハラ人との間で内戦が続いた。2009年に内戦が終わったばかりだ。公用語はシンハラ語とタミル語。



公の場ではシンハラ語、タミル語、英語の3つが併記されている。シンハラ文字もタミル文字も丸こっくてカワイイ文字だ(左)。

コロンボの空港には、11日間を共にする42歳の男性ガイド・マティスさんが待っていた。後で聞いたのだが、15歳と13歳の子どもがいる。高校卒業後日本の広島などで5年間働いていた。人懐つこくて親しみやすいが、5年もいたにしては日本語が上手とは言えないし、ガイド内容も完璧とは言えない。日本語のヒヤリングに疲れる11日間を過ごすことになった。

空港から宿泊地の二ゴンボまで10q。眠りについたのは日本時間の深夜1時を過ぎていたが、縦方向の移動は時差の影響をさほど受けないのでいくぶん楽だ。

                                  <ニゴンボのゴールデンスタービーチ泊>

8月25日(火)-2日目


5時頃に目が覚めてしまった。窓を開けるとムッとする暑さ。日本なら日中暑くても朝晩は涼しいが、赤道に近い国にいることを実感した。

海沿いにあるニコンボはリゾート地なので、ホテルにもプライベートビーチがある。インド洋をしげしげと見たのは初めてのような気がする。網を修繕している男性(左)がビーチにいた。許可をもらって写真を撮ったらマネーを要求された。昨夜空港で円を現地通貨のルピーに換えて小銭を持ち合わせていたのでよかった。

今日と明日は「スリランカ文化の三角地帯」を巡る。文化の三角地帯は、スリランカの中央にある仏教遺跡が集中するエリアを指す。アヌラーダプラ、ポロンナルワ、キャンディの3都市(上の地図参照)を結ぶと3角形になる。この中にミヒンタレー、シギリヤ、ダンラップなどの遺跡も含まれている。この中で聞いたことがあるのはシギリヤだけだ。情けないほど知らないのである。

8時にホテルを出て170q走りアヌラーダプラに着いた。とても覚えられそうにない地名だが、世界遺産に指定されている古都。2500年以上前から1400年も続いたという。日本でいえば弥生時代の頃に、今は決して豊かとはいえないスリランカに王朝が始まったことは驚きだが、インダス文明を思えばなんら不思議はない。「千年の都京都」よりはるかに古く期間も長い。

まず昼食。スリランカでの食事は朝も昼も夜もビュッフェスタイルがほとんどだが、客が少ない場合はセットメニューになる。私は辛さが苦手ではないが、ときどき飛び上るほど辛いことがあるので、わけがわからないものは皿にとらないようにしている。

確実なのは果物。果物はパイナップル、パパイヤ、スイカ、バナナ。スターフルーツやジャックフルーツが並ぶこともある。日本ではめったに食べないバナナだが、スリランカのバナナはコクあって美味しい。毎回飽きずに食べた(左)。

昼食後はいよいよ文化の三角地帯への第一歩。しばらくは寺院見学の約束事を守らねばならない。撮影する場合は仏像に背を向けてはならない。分かりやすく言うと「尊い仏像にお尻を向けるな」ということだ。短パン、ノースリーブ禁止は仏教寺院に限らないので抵抗はないが、この酷暑の中で帽子と日傘も禁止だ。靴下は履いてもいいが靴は脱がねばならない。現地の人はみな裸足だ。

ミャンマーで靴を脱がねばならないことが数度あったが、焼けつくような暑さは感じなかった。だから油断して靴下を1枚しか履かなかったが、これが大失敗。地面は暑いし、小石がごろごろしているので足裏に当たって痛い。「郷に入れば」精神でなければ海外旅行などやってられないので文句は言わないが、この厳しい決まりが下の階段からずっと続くのでヤレヤレである。キリスト教の教会やイスラム教のモスクに入る時も「帽子をとれ」とか逆に「スカーフをしろ」など言われるが、内部に入る時だけだ。でも、スリランカの場合は広い境内全部。靴を預かる商売人もいるので、ある意味人助けではある。

まず紀元前3世紀建立のイスルムニア精舎へ。極彩色の涅槃像が目を引く。これから飽きるほど涅槃像や休息している像を見る事になるのだが、ふと思ったのは日本には横たわっている像がない。スリランカ、タイ、ミャンマーなど上座部仏教が普及した国だけにあるのかもしれない。


イスルムニア精舎の涅槃像
 
 
菩提樹の前でお祈り

釈迦が悟りを開いたのは、インドのブッダガヤの菩提樹の下と言われる。アショカ王の妹がインドから枝を持ってきて植えた菩提樹が枯れもせず立っている。それほど月日が経っているとは思えない貧弱な木だが、その前で大勢の人がお詣りしていた。ほぼ全員が白い上下の正装だ。とても大事な場所に行くのだという思いが伝わってくる。ほとんどの人は、お供えするための大きな果物籠を掲げている。飛びっきりの笑顔で、お供えすることが楽しくてならないという雰囲気に満ちている。宗教心を持たない私が羨ましくなる一瞬だ。

次は真っ白い仏塔や釈迦の鎖骨が収められている仏塔を見た。スリランカの仏塔はほとんどが漆喰で白く仕上げられている。1年に1度は塗るという。


バスで30分ほど移動してミヒンタレー(上の地図参照)へ。インドのアショカ王の息子マヒンダが、シンハラ王朝の王とミヒンタレーの山上で出会い、王が仏教に帰依したという。紀元前247年の6月の満月の日だった。それもあって、今も満月の日は国民の休日。役所や銀行も閉まる。酒も飲めない。敬虔な仏教徒が多いので、ほとんどの人は寺院にお詣りするそうだ。マティスさんは「タイやカンボジアやミャンマーの仏教は、スリランカから伝わったのです」と得意気だ。

僧侶の食堂や会議室跡など遺跡を見た後、200段以上の階段を上って2つの仏塔を見る。ひとつはブッダの髪の毛が入っている。「ブッダの骨、ブッダの髪の毛」は聞き飽きて「本当なの?」と茶化す気も起きない。それにしても暑い。日傘、帽子厳禁が暑さに拍車をかける。靴下だけの足裏も痛くて暑い。

 
ミヒンタレーの僧侶の遺跡

 
真っ白い仏像は珍しい

仏教遺跡を一日見学して目についたのは五色の旗。他の仏教国では見かけなかったが、シャカが悟りを開いた証の旗だという。赤は釈迦の血、オレンジは皮膚、黄色は胆嚢、白は歯、青は頭を表している。

         <ダンブッラのライオンズロック泊>       (2016年12月16日 記)

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